ピンカンウーリの阿媽
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)※[#「山+労」、413−下−23]山の
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 忙中の小閑、うっとりと物思いに沈む気分になった時、いたずらにペンを執って、手紙でも書いてみようという、そんな相手はないものだろうか。もとより、用事の手紙ではなく、眼にふれ耳にはいる事柄の、埒もない独白だ。
 窓前の木の枝に小鳥が鳴いてるとか、薄霧がはれて日の光りがさしてきたとか、象牙のパイプに脂の色がほんのりしみてきたとか、銭湯に行こうかそれともちょっと酒でも飲もうか……などなど、意味もないつまらないことばかりを並べ立てて、さて、そんな手紙を誰に宛てて出したらよかろうか。
 手紙を書くということは、元来、ひどく億劫なことである。埒もない手紙にしても、戯画戯文ではない。それを書くのだから、なにかそこにはおのずから心情の温かみがあろう。愛情というほど強いものではない。ただ、頬杖をつくぐらいな気持ちで頭をもたせかける胸、何も求めない無償の意味で心を寄せかける肌、それだけの相手にすぎない。
 その相手が一つ、遠くにあった。
 秦の始皇帝の伝説は、日本によく知られている。山東半島の先端に突兀とそびえてる※[#「山+労」、413−下−23]山の頂から、始皇帝は海上はるかに見渡して、海の彼方にあるという蓬莱島のことを偲び、その島の不老不死の霊薬のことを思った由。私はいま逆に、こちらから彼方を偲ぶのである。
 ※[#「山+労」、414−上−3]山の麓の小さな半島の先に、青島の町がある。煉瓦とコンクリートと赤瓦との建物、舗装しつくされた街路、アカシアやプラタナスの並木、青澄な海と白砂の浜辺、丘上や岬に散在する公園、競馬場やゴルフ場……若いハイカラな近代都市である。
 だがこの都市にも、衙門や天后宮のような旧支那式建築が残っており、ピンカンウーリ(平康五里)の特殊な高楼がある。
 このピンカンウーリは、現在はどうなってるか分らないが、妓楼であった。広い中庭をかこんで、円形になってる六階建てのもの。一階は店屋であり、二階から上は、中庭に面して廻廊がめぐらされ、廻廊の内部に小房がずらりと並んでいて、それぞれ遊女たちの室である。階を上るに随って、彼女たちの格式もよくなり、最上階のはもはや娼妓というよりも芸妓である。
 その最上階の一房に、二人の芸妓がいた。まだ年は若いが、容姿といい芸といい、一流の売れっ妓で、料亭の宴席に出かけてることが多かった。この二人の身辺の世話をしてる阿媽がいた。阿媽といえば女中だが、一説では芸妓の養母だともいう。つまりは、日本の芸者屋のおかあさんに当るのであろう。
 この阿媽さん、年齢は四十過ぎだが、まだみずみずしい美人だった。青い支那服を着、しなやかな黒髪を小さく束ね、纒足にちっちゃな沓をつっかけてる、古風な身なりだが、半月形の眉、澄みきった黒目、餅のような頬の肉付、小さな口のつややかな唇、すんなりした両手の指、微妙な曲線をゆるがせる腰……そのすぐれた容色は、如何なる名妓を持って来ても足許にも及ばない。
 私はしばしば、彼女のところへ酒を飲みに行った。他の階のことは知らないが、その最上階では、客は芸妓を相手に、茶をすすり水瓜の種をかじりながら、ただ取り留めもない話で時間をつぶすのだった。
 阿媽さんが客の前に出ることは殆んどなかった。然し、私はそこの阿媽さんと懇意になった。二人の芸妓が宴席に出かけてることが多かったせいもある。それよりも、この土地のラオチュウはたいてい即墨の地酒だが、彼女が特別に紹興の本場物の上等品を手に入れてくれたからである。それを錫の銚子に燗をして、彼女は隣室から持って来、十分間ばかり私の相手をし、そしてまた隣室に引っ込んでしまう。
 私は手酌で飲み、ぼんやり時間をすごし、酒がなくなれば彼女に声をかける。彼女は銚子を持って現われ、十分間ばかり相手をしてくれる。
 懇意になった、と言っても、ただそれだけのことである。彼女の名前も知らない、ということにしておこう。十年ほど前に彼女は良人と死に別れて、今のような稼業にはいったらしく、それ以外の経歴は何にも分らない、ということにしておこう。
 私が行くと、彼女は芍薬の花のような立ち姿でにこと笑ってくれる、それだけで充分だったのだ。十分間差し向いでいても、むつかしいことは言葉が互に通じないので、殆んど無言に等しかった。愛欲の問題など、彼女の方にもなかったし、私の方にもなかった。
 私にとっては寧ろ、彼女は愛欲からの護符だったのだ。青島から出発する前晩、私はまた彼女のところで酒を飲んだ。その時、彼女は覚束
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