キロ近くの地域に、無数の爆弾が落ちたことになる。至る所に死体が横たわり、助けを呼ぶ重傷者の声が聞えた。その声も途絶えて、ひっそりと静まり返ると、重傷者たちは思い思いに水を探した。喉の渇きが甚しかったのである。防火用の水槽のまわりには、馬が水を飲むような恰好で、その縁につかまり頭を水面に垂れてる死体が、ずらりと並んだ。川の干潟の渚には、水の方にみな頭を向けて、死者と生者とが相並び、それを上げ潮の川水が徐々に浸していった。
 これ以上書くまい。――「もうたくさんじゃないか!」
 終戦後、広島にも、逃げのびた人たちが帰って来、疎開者たちが帰って来、復員者たちが帰って来た。人家も次第に建てられていった。そして翌年の八月六日には、復興祭が催され、次の年にはそれが平和祭となり、毎年平和祭が行われることとなった。この平和祭についても原爆の痛手なまなましい広島では、一部に不平の呟きもあったらしいが、現在ではそれも消えてしまっている。
 どうして、復興祭が平和祭となり、全市民がそれに賛同するようになったか。もう原子爆弾はたくさんだからだ。もう戦争はたくさんだからだ。原爆当初は、生計を失い、死者に囲まれ、
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