キロ近くの地域に、無数の爆弾が落ちたことになる。至る所に死体が横たわり、助けを呼ぶ重傷者の声が聞えた。その声も途絶えて、ひっそりと静まり返ると、重傷者たちは思い思いに水を探した。喉の渇きが甚しかったのである。防火用の水槽のまわりには、馬が水を飲むような恰好で、その縁につかまり頭を水面に垂れてる死体が、ずらりと並んだ。川の干潟の渚には、水の方にみな頭を向けて、死者と生者とが相並び、それを上げ潮の川水が徐々に浸していった。
これ以上書くまい。――「もうたくさんじゃないか!」
終戦後、広島にも、逃げのびた人たちが帰って来、疎開者たちが帰って来、復員者たちが帰って来た。人家も次第に建てられていった。そして翌年の八月六日には、復興祭が催され、次の年にはそれが平和祭となり、毎年平和祭が行われることとなった。この平和祭についても原爆の痛手なまなましい広島では、一部に不平の呟きもあったらしいが、現在ではそれも消えてしまっている。
どうして、復興祭が平和祭となり、全市民がそれに賛同するようになったか。もう原子爆弾はたくさんだからだ。もう戦争はたくさんだからだ。原爆当初は、生計を失い、死者に囲まれ、苦難と悲歎の底に沈み、もう生きるのもたくさんだとの思いをした人もあったろう。然し、かりに自分にとってはそうであっても、親にとっても、兄弟にとっても、妻子にとっても、そして隣人たちにとっても、そうであるとは誰が言いきれるか。もうたくさんなのは、戦争だけだ。平和でさえあれば……。ほっと一息ついて顧みると、戦争は悪夢のようなものだった。悪夢にうなされないためには、白日の光り、平和の光りだ。
ここに起った平和への呼び声は、自発的なものである。痛烈な体験から生じてきたものである。もとより、市長はじめ公共の識者たちの善意の誘掖もあったであろうが、元は市民の間から自然に起ったものと見るべきであろう。ヴォクス・ポプリ・ヴォクス・デイ……この市民の声は即ち神の声であった。そして今やヒロシマは平和記念都市として自己を建設しようとしている。構想は大きい。
戦争の脅威に対抗して、世界の良識ある人々の間には、周知の如く、平和擁護の声が起っている。その中にあって、ジョン・ハーシー氏の率直な記録「ヒロシマ」は、アメリカの良心に衝撃を与えた。オークランドには世界平和デー委員会が設けられ、次でニューヨークには、広島を世界のピース・センターにせんとの委員会が設けられた。ノーモア・ヒロシマズの声は世界に拡がりつつある。広島市庁には世界各地からの同情ある書信が到来しつつある。
この世界の与論に応じて否むしろそれに先んじて、ヒロシマは自らを平和都市となし、世界平和運動の根拠地たらんと自ら期している。だが、広島平和都市案は既に国会で可決されてはいるが、市の貧しい財政状態を以てしては、理想がいつ実現されることであろうか。原爆被害の物的資料の保存にさえ、安全な建物に事欠く現状である。平和記念館を建て、爆心地付近や城趾の荒野に大公園を設け、橋梁を修理し、河川を清掃し、放水路を作り、広い街路を通じ、河岸の緑地遊歩場を拵え……おう、限りなく仕事がある。
他方には、前述の老婦人が指摘したように、暗い面も多い。難渋な人々や気の毒な人々を善導して明るくしてやらなければならない。それに元来、広島は軍部に依存した所謂軍都であった。それが新たに、文化都市へ更生せんとする脱皮の悩みもある。それでも、多くの市民たちは、平和都市計画のために必要な私有土地を、進んで市へ還付しているのだ。
理想の実現には長年月を要するだろう。だが地の利は得ている。太田川の七つに分岐してる清流が市街地を六つのデルタに区分し、北方は青山にかこまれ南方へ扇形をなして海に打ち開け、海上一里ほどの正面に安芸の小富士と呼ばるる似ノ島の優姿が峙ち、片方に宇品の港を抱き、その彼方は、大小の島々を浮べてる瀬戸内海である。ここに建設される平和都市の予見は楽しい。
だが、まずそれまでは、ヒロシマの声に耳を傾け、その声を自分自身のものともしなければならない。ヒロシマは日本の中に在るのだ。軍備を廃止し戦争を放棄した日本に、平和擁護の声が起るのは当然のことだが、ヒロシマの声は最も痛切である。ヒロシマを忘れてる人がいはしないか。いつ如何なることがあっても、決して武器を手に執らないとの決意が出来ているか。ヒロシマを日本に持つことの苦難な光栄を人類に宣言するだけの覚悟があるか。講和条約が云々される折柄、これは根本的に重要な問題だ。戦争の大半は、人の心の中にある。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつ
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