ヒロシマの声
豊島与志雄

 一九四五年八月六日午前八時十五分、広島市中央部の上空に世界最初の原子爆弾が炸裂してから、四年数ヶ月になる。而も今になお、その被害の生々しい痕跡が市内の至る所に残っている。
 眼がくらむ閃光、強烈な熱線と放射線、狂猛な爆風……。中空には、巨大な松茸形に渦巻き昇る噴煙、地上には、荒れ狂う火炎……。それが当時の状況で、一瞬のうちに、爆心地から半径約二キロに及ぶ四方を廃墟と化したのだ。
 爆心地から五百メートルばかりの所に、大阪銀行支店がある。その正面入口の石段の片隅に、簡単な木柵がめぐらされている。覗いてみると、そこに、ありありと、人影が見られる。
 当時、住友銀行といっていたその建物の、入口の石段の片隅に、一人の人間が腰掛けて、恐らくは片肱を膝について頬杖をし、なにか物思いに沈んでいたらしい。そこへ、原爆炸裂の閃光がパッと来た。その人は即死だったろう。然しその影が、石段に刻印された。
 石段は花崗岩で出来ている。主成分の石英や長石の白色部分は、閃光を反射すること多く、雲母の黒色部分は、閃光を多く吸収して溶解し、そのため、花崗岩の表面は洗われたように白ずむ。この現象は多くの墓石などにも見られるし、或いは石の表面が剥離してるのもある。前記銀行の石段は雲母が熔解して白ずんだが、人影のところだけ旧態を保った。一瞬の間のことだ。
 その黒ずんだ人影は、今もそこに腰掛けて、物思いに沈んでいる。何を考えているのか、などとセンチメンタルなことは言うまい。ただ、その人影を見ていると、こちらの胸に熱い思いが湧き上ってくる。――「もうこんなことはたくさんだ! もうこんな戦争はたくさんだ! 僕の影が、君の影が、多くの人たちの影が、花崗岩の表面に刻印されるようなことは、もう御免だ!」
 石の面や壁の面に人の姿が刻印されているのが、当時はいくつも見られて、怪談さえ生れた。現に、ガス会社のタンクには、それを囲む鉄枠の影が、爆心地の方面に濃く刻みつけられている。中央公民館に聚集されている屋根瓦は、いろいろの程度に、表面が溶解して熔岩様を呈している。
 原爆炸裂時の熱線が如何に高熱なものであったかは、想像に余りある。長崎の爆弾は更に強力なもので、爆心地付近の屋根瓦の溶解度は、広島のよりも甚しい。広島の比治山には、アメリカの施設による原爆被害調査機関のA・B・C・Cがあるが、機密に属することは固より吾々には分らない。
 熱線と共に来る放射線が恐ろしい。広島の赤十字病院には、当時、X光線用の乾板が鉛のケースに収められて地下室にあったが、それがみな原位置のまま感光していた。
 この放射線は、生きのびた人々をも多数、所謂原爆症で殺した。無傷な人々までが不思議な死に方をした。嘔気、頭痛、下痢、発熱……次で、脱毛、下痢、高熱……次で、粘膜出血、白血球減少……。火傷の痕はみなケロイド状で、皮膚が盛り上ってゴムを塗りつけたようになる。赤十字病院には今もそういう患者がいる。
 或る老婦人は、こういう風に言った。――「広島の明るい面ばかりでなく、暗い面もよく見て下さいよ。」
 意味は二様に取れる。主要な街路にはだいたい小さな人家が立ち並び、公共建物もだいたい整備されているが、まだまだ、市民の中には日々の生活に難渋を極めてる者も多く、孤独無縁な者も多い。それから次に、ケロイド状火傷者がたくさんいる。人目につかない部分だけにある者はまだよいとして、顔や手にそれが大きくある者については、殊に若い娘たちの場合は、なんとも言葉には言えない。あまり外にも出ず、なるべく人目を避けてる人たちがずいぶんいるのだ。そしてこの火傷は、細胞組織の変質によるので、現代の外科手術を以てしても治癒出来難いのである。――
「このようなこと、もうたくさんではないか!」
 而も現在、広島のよりも数倍或いは数十倍の威力を持つ原子爆弾が、出来ているし或いは出来つつある。そしてひとたび戦争が起れば、否応なく第三次世界大戦に突入する可能性が多く、原子力戦になる危懼が大きい。原子爆弾以外にも如何なる武器が製作されるか、予測を許さない。そしてそれらの武器は、もはや、戦争を終熄させるためにではなく、仮借なき人間殺戮のために、全面的破壊のために使用されるだろう。
 広島でさえ、原爆による死者は十一万余と、一年後に警察から発表されている。この中には、軍人や軍属は含まれていないし、発表後に原爆症で死亡した数は固より含まれていない。現在でも正確な数字は不明である。全滅した地区もあり、調査が因難なのだ。
 そしてその大多数が、殆んど一瞬のうちに死亡したのである。炸裂したのはただの一発だったが、当時はまだ原子爆弾のことが一般には知られておらず、被害地の誰もが、自分のところに普通爆弾の直撃を受けたのだと思った。直径四
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