合す時、云い知れぬ家庭的感激が諸君の眼を湿ませなかったであろうか。
古の各家庭には、また現代でも素朴な各家庭には、大抵一の神棚があって、そこに家庭の神が祀られてるのを常とする。神というものは、人間の理想の具体化であると共に、人間の気高い感情の象徴である。家庭の神――それが本当の家庭の心である。バラックに住む諸君は、家庭の神に跪拝するの心地を、味い得たことであろう。
家庭を愛するの心は、他の博い愛の基をなすものである。神に奉仕せんがために己の家庭を捨てる、そういう生活様式も世にあることを、私は否定するものではない。然しながら、吾々及び諸君の生活様式では、家庭を捨てることは、他のあらゆる愛を捨てることになる。自分の家族よりもより多く隣人を愛するという者を、私は信ずることが出来ない。より多く自分の家庭を愛する者こそ、より多く隣人を愛するものである。愛という言葉の誤解を防がんがために、これを云い換えれば、自分の家族のことを本当によく考える者こそ、隣人のことを本当によく考える者である。
バラックの諸君よ、家庭というものを本当によく感じ味い考え給え。
それから、諸君の眼に映じた第二のものは、仕事というものだったに違いない。
住宅や家財や業務の便宜などを失って、バラック内に茫然としている諸君の心に、先ず猛然と起ってきたものは、何かを為したいという心、何かを為さずにはいられないという心、即ち働く意志だったであろう。この働くということは、必ずしも食を得るという功利的のものではなくて、もっと深い直接の要求だったに違いない。
人は命を繋ぐためには、食を摂らなければならないことは勿論である。然しながら、食を摂って命を繋ぐということは、何の問題にもならない。地震当時に食物を手に入れることが、罷災者の第一の要求だったには相違なかろうけれど、それはああいう場合の一時の現象で、生きてゆく上の生活の――主要な問題ではない。吾々が空気と食物とで命を繋いでるということは、吾々が地球上に住んでるということと同様に、単なる事実である。大地が吾々に必要だということが、吾々の生活に於て問題でない如く、空気と食物とが吾々に必要だということは、吾々の生活に於て問題ではない。それは根本の原則ではあるけれど、それを考えたとて何にもならない。ただ知ってさえおればよいのである。
生命を繋ぐということと、生きて
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