心《じそんしん》から、そういう好意《こうい》がうれしかった。そしてかなり機敏《きびん》だったので、自分《じぶん》がほめられたのをさとった。けれども、祖父《そふ》が自分のうちの何を一番ほめたのか、それがよくわからなかった。戯曲家《ぎきょくか》としての才能《さいのう》か、音楽家としての才能《さいのう》か、歌い手としての才能か、または舞踊家《ぶようか》としての才能か。彼はそのいちばんおしまいのものだと思いたかった。なぜなら、それを立派《りっぱ》な才能《さいのう》だと思っていたから。
 それから一|週間《しゅうかん》たって、クリストフがそのことをすっかり忘《わす》れてしまった頃、祖父《そふ》はもったいぶった様子《ようす》で、彼に見せるものがあるといった。そして机《つくえ》をあけて、中から一|冊《さつ》の楽譜帖《がくふちょう》をとり出し、ピアノの楽譜台《がくふだい》にのせて、弾《ひ》いてごらんといった。クリストフは大変困ったが、どうかこうか読み解《と》いていった。その楽譜《がくふ》は、老人《ろうじん》の太い書体《しょたい》で特別に念《ねん》をいれて書いてあった。最初《さいしょ》のところには輪や花形《はながた》の飾《かざり》がついていた。――祖父はクリストフのそばに坐《すわ》ってページをめくってやっていたが、やがて、それは何の音楽《おんがく》かと尋《たず》ねた。クリストフは弾《ひ》くのに夢中《むちゅう》になっていて、何を弾《ひ》いてるのやらさっぱりわからなかったので、知らないと答《こた》えた。
「気《き》をつけてごらん。それがわからないかね。」
 そうだ、たしかに知っていると彼は思った。しかし、どこで聞いたのかわからなかった。……祖父《そふ》は笑っていた。
「考《かんが》えてごらん。」
 クリストフは頭《あたま》をふった。
「わからないよ。」
 ほんとうをいえば、思《おも》いあたることがあるのだった。どうもこの節は……という気《き》がした。だがそうだとは、いいきれなかった……いいたくなかった。
「お祖父《じい》さん、わからないよ。」
 彼は顔を赤《あか》らめた。
「ばかな子だね。自分《じぶん》のだということがわからないのかい。」
 たしかにそうだとは思っていた。けれどはっきりそうだと聞《き》くと、はっとした。
「ああ、お祖父《じい》さん。」
 老人《ろうじん》は顔を輝《かがや》かしながら、クリストフにその楽譜《がくふ》を説明《せつめい》してやった。
「これは詠唱曲《アリア》だ。火曜日《かようび》にお前が床にねころんでうたっていたあれだ。それから、行進曲《マーチ》。先週《せんしゅう》だったね、もう一度やってごらんといっても、思《おも》いだせなかったろう、あれだ。それから三拍子曲《ミニュエット》。肱掛椅子《ひじかけいす》の前で踊っていた時の歌だ。……みてごらん。」
 表紙には、見事な花文字《はなもじ》で、こう書いてあった。

[#ここから2字下げ]
少年時代の快楽《かいらく》――詠唱曲《アリア》、三拍子曲《ミニュエット》、円舞曲《ワルツ》、行進曲《マーチ》。ジャン・クリストフ・クラフト作品《さくひん》※[#ローマ数字1、1−13−21]。
[#ここで字下げ終わり]

 クリストフは目《め》がくらむような気がした。自分《じぶん》の名前、立派《りっぱ》な表題《ひょうだい》、大きな帖面《ちょうめん》、自分の作品《さくひん》! これがそうなんだ。……彼はまだよく口がきけなかった。
「ああ、お祖父《じい》さん! お祖父《じい》さん!……」
 老人《ろうじん》は彼を引寄《ひきよ》せた。クリストフはその膝《ひざ》に身体《からだ》を投《な》げかけ、その胸《むね》に顔をかくした。彼は嬉《うれ》しくて真赤《まっか》になっていた。老人《ろうじん》は子供よりもっと嬉《うれ》しかったが、わざと平気《へいき》な声で――感動《かんどう》しかかってることに自分《じぶん》でも気づいていたから――いった。
「もちろん、お祖父《じい》さんが伴奏《ばんそう》をつけたし、また歌の調子《ちょうし》に和声《ハーモニー》を入れておいた。それから……(彼は咳《せき》をした)……それから、三拍子曲《ミニュエット》に中間奏部《トリオ》をそえた。なぜって……なぜって、そういう習慣《しゅうかん》だからね。それに……とにかく、悪くなったとは思《おも》わないよ。」
 老人はその曲《きょく》を弾《ひ》いた。――クリストフは祖父《そふ》と一しょに作曲《さっきょく》したことが、ひどく得意《とくい》だった。
「でも、お祖父《じい》さん、お祖父さんの名前《なまえ》も入れなきゃいけないよ。」
「それには及ばないさ。お前《まえ》よりほかの人に知らせる必要《ひつよう》はない。ただ……(ここで彼の声はふるえた)……ただ、
前へ 次へ
全10ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング