あとで、お祖父《じい》さんがもういなくなった時、お前はこれを見て、年とったお祖父《じい》さんのことを思い出してくれるだろう、ねえ! お祖父《じい》さんを忘《わす》れやしないね。」
憐《あわ》れな老人《ろうじん》は思ってることをすっかりいえなかった。彼《かれ》は、自分よりも長い生命《いのち》があるに違《ちが》いないと感じた孫《まご》の作品《さくひん》の中に、自分のまずい一節《ひとふし》をはさみ込むという、きわめて罪《つみ》のない楽《たの》しみを、おさえることができなかったのである。けれども、今から想像《そうぞう》される孫《まご》の光栄《こうえい》に一しょに加わりたいというその願《ねが》いは、ごくつつましい哀《あわ》れなものだった。彼は自分が全《まった》く死にうせてしまわないようにと、自分の思想《しそう》の一片《いっぺん》を自分の名もつけずに残しておくだけで、満足《まんぞく》していたのである。――クリストフは、ひどく感動《かんどう》して、老人《ろうじん》の顔にやたらに接吻《せっぷん》した。老人はさらに心を動かされて、彼の頭《あたま》を抱きしめた。
「ねえ、思《おも》い出《だ》してくれるね。これから、お前が立派《りっぱ》な音楽家《おんがくか》になり、えらい芸術家《げいじゅつか》になって、一家の光栄《こうえい》、芸術の光栄、祖国《そこく》の光栄《こうえい》となった時、お前が有名になった時、その時になって、思い出してくれるだろうね、お前《まえ》を最初《さいしょ》に見出し、お前の将来《しょうらい》を予言《よげん》したのは、この年《とし》とったお祖父《じい》さんだったということをね……」
その日《ひ》以来《いらい》、クリストフはもう作曲家《さっきょくか》になったのだったから、作曲《さっきょく》にとりかかった。まだ字《じ》を書《か》くことさえよく出来《でき》ないうちから、家計簿《かけいぼ》の紙《かみ》をちぎりとっては、いろいろな音符《おんぷ》を一|生懸命《しょうけんめい》書《か》きちらした。けれども、自分《じぶん》がどんなことを考えているかそれを知《し》るために、そしてそれをはっきり書《か》きあらわすために、あまり骨折《ほねお》っていたので、ついには、何か考《かんが》えてみようとするだけで、もう何も考えなくなってしまった。それでも彼は、やはり楽句《がっく》([#ここから割り注]楽曲の一節[#ここで割り注終わり])を組みたてようとりきんでいた。そして音楽の天分《てんぶん》がゆたかだったので、まだ何の意味《いみ》も持たないものではあったけれど、ともかくも楽句《がっく》をこしらえ上げることができた。すると彼は喜び勇《いさ》んで、それを祖父《そふ》のところへ持っていった。祖父《そふ》は嬉《うれ》し涙をながし――彼はもう年をとっていたので涙《なみだ》もろかった――そして、素晴《すば》らしいものだといってくれた。
そんなふうに、彼はすっかり甘《あま》やかされてだめになるところだった。しかし幸《さいわい》なことに、彼は生《う》まれつき賢《かしこ》い性質《せいしつ》だったので、ある一人の男のよい影響《えいきょう》をうけて救《すく》われた。その男というのは、ほかの人に影響《えいきょう》を与《あた》えるなどとは自分でも思っていなかったし、誰《たれ》が見《み》ても平凡《へいぼん》な人間《にんげん》だった。――それはクリストフの母親《ははおや》ルイザの兄だった。
彼はルイザと同《おな》じように小柄《こがら》で、痩《や》せていて、貧弱《ひんじゃく》で、少し猫背《ねこぜ》だった。年《とし》のほどはよくわからなかった。四十をこしている筈《はず》はなかったが、見たところでは五十|以上《いじょう》に思われた。皺《しわ》のよった小さな顔は赤みがかって、人のよさそうな青《あお》い眼《め》が色《いろ》のさめかけた瑠璃草《るりそう》のような色合《いろあい》だった。隙間風《すきまかぜ》がきらいで、どこででも寒《さむ》そうに帽子《ぼうし》をかぶっていたが、その帽子をぬぐと、円錐形《えんすいけい》の赤い小さな禿頭《はげあたま》があらわれた。クリストフと弟《おとうと》たちはそれを面白《おもしろ》がった。髪《かみ》の毛はどうしたのと聞いてみたり、父親《ちちおや》メルキオルの露骨《ろこつ》な常談《じょうだん》におだてられて、禿《はげ》をたたくぞとおどしたりして、いつもそのことで彼《かれ》をからかってあきなかった。すると小父《おじ》はまっさきに笑《わら》いだし、されるままになって少しも怒《おこ》らなかった。彼はちっぽけな行商人《ぎょうしょうにん》だった。香料《こうりょう》、紙類、砂糖菓子《さとうがし》、ハンケチ、襟巻《えりまき》、履物《はきもの》、缶詰《かんづめ》、暦《こよみ》、小唄集、
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