フリートの言葉が胸《むね》の奥《おく》に刻《きざ》みこまれていた。彼は嘘《うそ》をついたのがはずかしかった。
それで、彼はしつっこく怨《うら》んではいたものの、作曲《さっきょく》をする時には、今ではいつもゴットフリートのことを考《かんが》えていた。そしてしばしば、ゴットフリートがどう思《おも》うだろうかと考えると、はずかしくなって、書《か》いたものを破《やぶ》いてしまうこともあった。そういう気持《きもち》をおしきって、全く誠実《せいじつ》でないとわかっている曲《きょく》を書くような時には、気《き》をつけてかくしておいた。どう思われるだろうかとびくびくしていた。そしてゴットフリートが、「そんなにまずくはない……気《き》にいった……」とただそれだけでもいってくれると、嬉《うれ》しくてたまらなかった。
また、時には意趣《いしゅ》がえしに、偉《えら》い音楽家の曲《きょく》を自分のだと嘘《うそ》をいって、たちのわるい悪戯《いたずら》をすることもあった。そして小父《おじ》がたまたまそれをけなしたりすると、彼はこおどりして喜《よろこ》んだ。しかし小父《おじ》はまごつかなかった。クリストフが手《て》をたたいて、喜《よろこ》んでまわりをはねまわるのを見《み》ながら、人がよさそうに笑っていた。そしていつもの意見《いけん》をもち出《だ》した。「うまくは書いてあるかも知れないが、何《なん》の意味《いみ》もない。」――彼はいつも、クリストフの家で催《もよ》おされる小演奏会《しょうえんそうかい》に出席《しゅっせき》したがらなかった。その時の音楽《おんがく》がどんなに立派《りっぱ》なものであっても、彼は欠伸《あくび》をしだし、退屈《たいくつ》でぼんやりしてる様子《ようす》だった。やがて辛抱《しんぼう》出来なくなり、こっそり逃《に》げ出《だ》してしまうのだった。彼はいつもいっていた。
「ねえ、坊《ぼう》や、お前が家《いえ》の中で書くものは、どれもこれも音楽《おんがく》じゃないよ。家の中の音楽は、部屋《へや》の中の太陽《たいよう》と同じだ。音楽は家《いえ》の外《そと》にあるものなんだ、外で神様のさわやかな空気《くうき》を吸《す》う時《とき》なんかに……。」
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あとがき
クリストフはその後《ご》、偉《えら》い音楽家《おんがくか》になりました。彼《かれ》の音楽《おんがく》はいつも、彼《かれ》の思想《しそう》や感情《かんじょう》をありのままに表現《ひょうげん》したもので、彼《かれ》の心《こころ》とじかにつながってるものでありました。そして彼《かれ》がえらい音楽家《おんがくか》になったのは、ゆたかな天分《てんぶん》と苦《くる》しい努力《どりょく》とによるのですが、また幼《おさな》い時《とき》にゴットフリートから受《う》けた教訓《きょうくん》は、ふかく心《こころ》にきざみこまれていて、たいへん彼《かれ》のためになりました。
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底本:「日本少国民文庫 世界名作選(一)」新潮社
1998(平成10)年12月20日発行
底本の親本:「世界名作選(一)」日本少國民文庫、新潮社
1936(昭和11)年2月8日
入力:川山隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年1月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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