とについて、考《かんが》えつづけています。(訳者)
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 クリストフがいる小さな町《まち》を、ある晩、流星《りゅうせい》のように通りすぎていったえらい音楽家《おんがくか》は、クリストフの精神《せいしん》にきっぱりした影響《えいきょう》を与えた。幼年時代《ようねんじだい》を通じて、その音楽家の面影《おもかげ》は生きた手本《てほん》となり、彼《かれ》はその上《うえ》に眼《め》をすえていた。わずか六歳の少年《しょうねん》たる彼が、自分もまた楽曲を作ってみようと決心《けっしん》したのは、この手本に基《もとづ》いてであった。だがほんとうのことをいえば、彼《かれ》はもうずいぶん前から、知《し》らず知《し》らずに作曲《さっきょく》していた。彼が作曲し始《はじ》めたのは、作曲していると自分《じぶん》で知るよりも前《まえ》のことだったのである。
 音楽家《おんがくか》の心にとっては、すべてが音楽《おんがく》である。ふるえ、ゆらぎ、はためくすべてのもの、照《て》りわたった夏《なつ》の日、風の夜、流《なが》れる光、星のきらめき、雨風《あめかぜ》、小鳥《ことり》の歌、虫の羽音《はおと》、樹々《きぎ》のそよぎ、好《この》ましい声《こえ》やいとわしい声、ふだん聞《き》きなれている、炉《ろ》の音《おと》、戸の音、夜の静《しず》けさのうちに動脈《どうみゃく》をふくらます血液《けつえき》の音、ありとあらゆるものが、みな音楽《おんがく》である。ただそれを聞きさえすればいいのだ。ありとあらゆるものが奏《かな》でるそういう音楽《おんがく》は、すべてクリストフのうちに鳴《な》りひびいていた。彼《かれ》が見《み》たり感《かん》じたりするあらゆるものは、みな音楽《おんがく》に変《か》わっていた。彼《かれ》はちょうど、そうぞうしい蜂《はち》の巣《す》のようだった。しかし誰《たれ》もそれに気づかなかった。彼自身《かれじしん》も気《き》づかなかった。
 どの子供《こども》でもするように、彼もたえず小声《こごえ》で歌《うた》っていた。どんな時《とき》でも、どういうことをしてる時でも、たとえば片足《かたあし》でとびながら往来《おうらい》を歩きまわっている時でも――祖父《そふ》の家の床《ゆか》にねころがり、両手《りょうて》で頭を抱《かか》えて書物《しょもつ》の挿絵《さしえ》に見入っている時でも――
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