た。彼女は矜持《きょうじ》のうちに意地張っていた。クリストフにそばにいてもらいたくはあったが、ついて来ることを禁じたあとのことだった。「私はあまり弱っています、あなたに助けてほしゅうございます……。」と今になって白状することもできがたかった。
 ある夕方、心痛してる者にとってはいかにもつらい薄暮のころ、彼女が山荘の行廊《こうろう》に立っていると、眼にはいった……。索条鉄道の停車場から登りになってる小道の上に、それが見えたような気がした……。その人は急ぎ足に歩いてきた。背を少しかがめて躊躇《ちゅうちょ》しながら立ち止まった。ちょっと顔をあげて山荘のほうをながめた。彼女は見られないようにと家の中に駆け込んだ。両手で胸の動悸《どうき》を押えながら、感動しきって笑みを浮かべた。彼女はほとんど宗教を信じていなかったが、そこにひざまずいて両腕に顔を隠した。何物かに感謝せずにはいられなかった……。それでもまだ彼はやって来なかった。彼女は窓のところへもどって行き、窓掛の後ろに隠れてながめた。彼は山荘の入り口に、畑地の垣根《かきね》を背にして立ち止まっていた。あえてはいり得ないでいた。彼女は彼よりもいっそう心乱れて、微笑《ほほえ》みながら低く言っていた。
「来てください……来てください……。」
 ついに彼は心を決して呼鈴を鳴らした。すでに彼女は戸口に行っていた。彼女は扉《とびら》を開いた。彼は打たれるのを恐れてる善良な犬のような眼つきをしていた。彼は言った。
「やって来ました……ごめんください……。」
 彼女は言った。
「ありがとう。」
 そして彼女はどんなに彼を待ってたかを白状した。
 クリストフは彼女に手伝って、ますます容態が悪くなってる子供の看病をした。彼はそれに全心を傾けた。子供は彼にたいしていらだった憎しみを示した。もうそれを隠しもしなかった。悪意ある言葉を捜しては言い立てた。しかしクリストフはそれをみな病気のせいだとした。かつて見ないほどの我慢をした。二人は子供の枕頭《ちんとう》で、苦しい日々を過ごし、ことに険悪な一夜を過ごした。その一夜が明けると、もう駄目《だめ》だと思われてたリオネロは助かった。それは二人にとっては――眠っている子供を夜通し看護していた二人にとっては――いかにも清い幸福だったので、彼女はにわかに立ち上がって、頭巾《ずきん》付きの外套《がいとう》を取り上げ、家の外に、道の上に、雲と静寂と夜との中に、冷たい星の下に、クリストフを連れ出した。彼女は彼の腕にもたれて、凍えた世界の平和を夢中になって吸い込んだ。二人はようやく二、三語かわしたのみだった。たがいの愛のことは少しも語らなかった。家にまたはいろうとするとき、入り口の敷居の上で、子供の助かった幸福に眼を輝かしながら、彼女はただこう言った。
「私の大事なあなた!……」
 それがすべてだった。しかし二人は自分たちを結びつけてる糸が神聖なものとなってるのを感じた。

 リオネロの長い回復期を過ごしてパリーに帰り、パッシーに小さな邸宅を借りて住んでからは、彼女はもう「世評を慮《おもんぱか》る」だけの注意もしなかった。友のために世評なんか軽蔑《けいべつ》するだけの勇気を身に感じた。あれ以来二人の生活はきわめて親しく融合していたので、彼女は二人を結びつけてる友情を、たとい誹謗《ひぼう》される危険を冒しても――そして誹謗されるにきまっていたが――卑怯《ひきょう》に隠しだてするにも及ばないと考えた。彼女はどんな時間にもクリストフを迎え入れた。クリストフといっしょに散歩にも出れば芝居へも行った。だれの前でも馴《な》れ馴れしく彼へ話しかけた。それで彼ら二人が情人同志であることを疑う者はなかった。コレットでさえも彼らをあまり見せつけがましいと思った。グラチアはあらゆる揶揄《やゆ》を微笑で押し止めて、平然と超越していた。
 それでも彼女は、自分にたいするなんらの新たな権利をもクリストフに与えていなかった。二人はただ友だちにすぎなかった。彼はやはり同じやさしい尊敬の調子で彼女に口をきいた。しかし二人の間には何も隠し隔てがなかった。何事についても相談し合った。そして知らず知らずのうちに、クリストフは家の中で一種の家庭的主権を振るうようになった。グラチアは彼の言うことを聴《き》き彼の意見に従った。療養院で冬を過ごしてからは、彼女はもう別人のようになっていた。不安と疲労とが、それまで堅固だった彼女の健康をひどく害していた。魂もその影響を受けていた。昔の気紛れがときどき出て来ることもあったが、何かしらずっと真面目《まじめ》になり、ずっと専心的になっていて、善良になり修養をし人を苦しめまいという願望が、ずっと確かになってきた。彼女はクリストフの愛情や無私や純潔な心などに、しみじみと感動させられていた。そしていつかは、彼がもう夢想してもいない大きな幸福を与えてやって、彼の妻となろうと考えていた。
 彼は彼女に断わられてからもう二度と結婚のことを口にしなかった。結婚なんかは自分に許されていないと思っていた。しかしその不可能な希望を愛惜する情は消えなかった。彼女の言葉をいかにも尊重してはいたが、結婚というものを批判する彼女の悟り澄ました態度には、やはり賛同できなかった。深い敬虔《けいけん》な愛で愛し合ってる二人の者の結合は、人間の幸福の絶頂であるということを、彼はなお信じつづけていた。――そして彼の未練の念は、アルノー老夫妻と出会ってさらに新たになった。
 アルノー夫人は五十歳を越していた。夫は六十五、六歳になっていた。二人とも年齢よりははるかに老《ふ》けていた。彼は肥満していたし、彼女は痩《や》せ細って少し皺《しわ》寄っていた。背からすでに細そりしていた彼女は、もはや息の根ばかりになっていた。夫が職を退いてから、二人は田舎《いなか》の家に隠退していた。二人を時代に結びつけるものは、配達される新聞ばかりだった。小さな町と眠ってる二人の生活との懶惰《らんだ》の中に、その新聞は世間の雑事の時おくれた反響をもたらしてきた。あるとき彼らは新聞の中でクリストフの名前を見た。アルノー夫人は心こめたやや儀式ばった数行の手紙を書いて、彼の成功を自分たちが喜んでる旨を告げた。彼はその手紙を見るとすぐに、前触れもせずに汽車に乗って出かけた。
 彼が着いたとき、彼らは庭に出ていて、夏の暑い午後を、丸|傘《がさ》のように茂った秦皮《とねりこ》の下でうつらうつらしていた。手を取り合って青葉|棚《だな》の下で居眠ってるベックリンの老夫婦に似ていた。日光と眠りと老衰とに彼らはうち負けている。もう衰えきってすでに半ば以上永遠の夢の中に没している。そして生命の最後の輝きとして、彼らの愛情が、手と手との接触が、消えゆく身体の温《ぬく》みが、終わりまで残っている……。――二人はクリストフの訪問を非常に喜んだ。彼によって過去のことをいろいろ思い出したからだった。遠くから見ると光り輝いてるように思われる昔のことを、彼らは話しだした。アルノーは自分から話すのを喜んだ。しかし人の名前を忘れていた。で夫人はそれを言ってやった。彼女は好んで黙っていた。しゃべるよりも聴いてるほうを好んだ。しかし彼女の黙々たる心のうちには、昔のいろんな面影があざやかに残っていた。あたかも小川の中の光った小石のように、それらの面影はちらちらと見え透いていた。クリストフはやさしい同情で自分をながめてる彼女の眼の中に、それらの面影の一つが幾度も映ってくるのを見てとった。しかしオリヴィエという名前は一度も口に上らなかった。アルノー老人は細君にたいして、無器用な痛切な注意を配っていた。彼女が寒気あるいは暑気に中《あた》りはすまいかと心配していた。その色|褪《あ》せた親愛な顔を不安げな愛情で見守っていた。すると彼女は疲れた微笑で彼を安心させようとしていた。クリストフは感動してやや羨《うらや》ましげに二人を観察した……。いっしょに年を取ってゆく。自分の伴侶《はんりょ》のうちに老年の衰えまでも愛する。そしてこう考える。「眼のそばの、鼻の上の、お前のその小さな皺《しわ》を、私はよく知っている。それが刻まれるのを私は見てきた。いつそれができたかを私は知っている。お前のその憐《あわ》れな灰色の髪は、私とともに日に日に色を失ってきた、そして悲しいかな、多少は私のせいで色を失ってきたのだ! お前の貴《とうと》いその顔は、私ども二人を焦燥さした疲労と苦心とのために、ふくらんで赤くなったのである。私の魂よ、私とともに苦しみ年老いてきたお前を、私はどんなにかいっそう愛してることだろう! お前の皺の一つ一つは、私にとっては過去が奏《かな》でる一つの音楽である。」……相並んで長い間の生を営んできた後、暗黒の平和の中に相並んで眠りに行く、見るも楽しい老人たち! 彼ら二人の様子を見るのは、クリストフにとっては慰安でもあればまた苦痛でもあった。おう、生は、そして死は、こんなだったらいかに美しいことであろう!
 彼はつぎにグラチアに会ったとき、その訪問の話をせずにはいられなかった。彼はその訪問によって呼び起こされた考えを彼女に言いはしなかった。しかし彼女は彼のうちにその考えを読みとった。彼は話しながら心を他処《よそ》にしていた。眼をそらしていたし、ときどき口をつぐんだ。彼女は彼をうちながめ、微笑を浮かべていた。そして彼の心乱れは彼女にも伝わっていった。
 その晩、彼女は自分の室に一人きりとなったとき、じっと夢想に沈んだ。彼女はクリストフの話をみずから繰り返してみた。しかし彼女がその話を通して見た面影は、秦皮《とねりこ》の木陰に居眠ってる老夫婦のそれではなかった。友の内気な熱烈な夢想であった。そして彼女の心は愛でいっぱいになった。燈火を消して床にはいってから、彼女は考えた。
 ――そうだ、そんな幸福が得らるる機会をのがすのは、ばかばかしい罪深いことに違いない。自分の愛する人を幸福にしてやる喜びほど、貴い喜びが世にあろうか?……おや、私はあの人を愛しているのかしら?
 彼女は口をつぐみ感動しながら、心の答えに耳を傾けた。
 ――私はあの人を愛している。
 ちょうどそのとき、かわき嗄《しわが》れた急な咳《せき》の音が、子供たちの眠ってる隣室に起こった。グラチアは耳をそばだてた。男の子の病気以来彼女はいつも不安な心地になっていた。彼女は彼に尋ねかけた。彼は返辞もしないで咳をつづけた。彼女は寝床から飛び出して彼のそばへ行った。彼はいらだっていて駄々《だだ》をこね、加減がよくないと言い、言いやめて咳をした。
「どこが悪いの?」
 彼は答えなかった。苦しいと呻《うめ》き声を出した。
「いい児《こ》だからね、さあ、どこが悪いかと言ってごらんなさい。」
「わからない」
「ここが苦しいの?」
「ええ、いいえ。わからない。身体じゅうが苦しい。」
 そして彼はまた新たに激しく無性に咳《せ》きこんだ。グラチアはびっくりした。彼女はちょっと彼が無理に咳をしてるような気がした。しかし彼が汗を流し息をはずませてるのを見るとみずからそれをとがめた。そして彼を抱擁してやり、やさしい言葉をかけてやった。彼は落ち着いてくるようだった。けれど彼女がそばを離れようとすると、彼はすぐにまた咳を始めた。彼女は震えながら彼の枕頭《ちんとう》についていなければならなかった。彼は彼女が着物を着に立ち去ることさえ許さなかったし、彼女に手を握っていてもらいたがった。そして寝入るまで彼女を少しも離さなかった。彼が寝入ってから彼女は、凍え慴《おび》え疲れはてて床にはいった。そしてふたたび自分の夢想を呼び出すことはできなかった。

 この子供は母親の考えを読みとることに不思議な能力をそなえていた。同じ血を分けた人々の間にはそういう本能的な才能がしばしば――しかしこれほどの程度のは珍しいが――見出されるものである。相手の考えてることを知るためには、ほとんどその顔を見るにも及ばない。眼にも止まらぬ多くの兆候で推察してしまう。共同の生活によって強めらるるそういう天性は、
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