。彼らの現在は二十歳ころの彼と同様だった。そして生の流れはさかのぼるものではない。心の底ではクリストフも、自分のほうはそれらの激烈さに別れを告げてしまってることや、自分は平和のほうへ進みつつあることなどを、よく知っていた。そしてグラチアの眼が平和の秘密の鍵《かぎ》を握ってるらしかった。ではなにゆえに彼は彼女に逆らおうとしたのか?……ああそれは、愛の利己心によって、自分一人でその平和を享楽したいがためだった。グラチアがすべての訪問者に惜しげもなく平和の恵みを分かつことや、彼女が万人に向かってその優しい歓待を振りまくことなどを、彼は忍び得なかったのである。

 彼女は彼の心中を読みとっていた。そして例の柔和な率直さである日彼に言った。
「あなたは私がこんなであるのを嫌《いや》に思っていらっしゃるでしょうね。でも私を理想化しなすってはいけません。私は女ですし、普通の人よりすぐれたものではありません。私は別に社交界を求めてるのではありませんが、うち明けて申しますと、それがやはり私には快いのです。ちょうど、あまりよくない芝居へときどき行ったり、あまり意味もない書物を読んだりするのが、面白いのと同
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