い。
 彼は扉《とびら》を閉め切ってしまった。だれもそれをたたいて訪れる者はなかった。ジョルジュは同情の力を一度にすっかり費やしてしまった。家に帰ると安心して、翌日はもうそのことを考えなかった。コレットはローマへ出発した。エマニュエルは何にも知らなかった。そしていつものとおり疑心深くて、クリストフから訪問の返しを受けないので、不満に思って沈黙を守った。そしてクリストフは、あたかも妊娠の女が大事な荷を負うように、今や自分の魂の中に負うている彼女を相手に、だれにも邪魔されることなく、幾日も無言の対話にふけった。いかなる言葉にも移せない痛切な対話だった。音楽をもってしても表現しがたいものだった。心がいっぱいになってあふれるほどになると、クリストフはじっと眼をふさいで、その心の歌に耳を傾けた。あるいは幾時間もピアノの前にすわって、自分の指先が語るに任した。この期間だけの間に彼は、他の時期全体におけるよりもいっそう多くの即興曲をこしらえた。しかし彼は自分の考えを書き止めなかった。書き止めたとて何になろう?
 数週間たった後に、彼はまた外に出かけて、他人と会い始めた。しかしジョルジュを除いては、彼
前へ 次へ
全340ページ中263ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング