。すべてが音楽であり、すべてが歌っている。金色の亀裂《きれつ》のある真赤《まっか》な往来の壁面、上方には縮れっ毛の二本の糸杉、周囲には紺碧《こんぺき》の空。青色の建物の正面の方へ赤壁の間を上っていってる、急な白い大理石の石段。杏子《あんず》色やシトロン色や仏手柑《ぶつしゅかん》色などさまざまの色で、橄欖樹《オリーヴ》の間に輝いてるそれらの家は、木の葉の中のみごとな果実のように見える……。イタリーの幻覚は肉感的である。汁《しる》の多い芳しい果実を舌が喜ぶように、人の眼は色彩を喜ぶ。その新しい御馳走《ごちそう》の上へ、クリストフは貪婪《どんらん》な食欲で飛びついていった。これまで灰色の幻像にばかり限られていた禁欲生活の補いをつけた。運命のために息をふさがれていた彼の豊饒《ほうじょう》な性質は、これまで用いなかった享楽の力を突然意識しだした。その力は差し出された餌食《えじき》を奪い取った。芳香、色彩、人声や鐘や海の音楽、空気と光との快い愛撫《あいぶ》……。クリストフはもう何事をも考えなかった。法悦のうちに浸った。彼がそれから我に返るのは、出会う人々に自分の喜びを伝えんがためばかりだった。相手
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