けた。しかし彼女は微笑《ほほえ》みながら、ごくやさしい身振りでそれを押し止めた。
「いえ! あなたがどんなことをおっしゃろうと、それはみな私の感じてることですから。」
二人は初めふいに出会ったあの道の曲がり角にすわった。彼女はやはり微笑みながら下の谷間をながめた。けれど彼女が眼に見てるのはその谷間ではなかった。彼は苦悩の跡が残ってる柔和な彼女の顔を見守った。濃い黒髪の中には方々に白髪が見えていた。魂の悩みが印せられてるその肉体にたいして、彼は憐憫《れんびん》と情熱との交じった崇敬の念を覚えた。時の傷跡のうちに至るところ魂が露《あら》わに見えていた。――そして彼は低い震える声で、貴重な恩顧をでも求めるように、その白髪の一筋を求めて、もらい受けた。
彼女は出発した。なぜ自分をいっしょに伴おうとしないかを、彼は了解できなかった。彼は彼女の友情を少しも疑いはしなかった。しかし彼女の控え目なのに当惑した。彼はその土地に二日ととどまってることはできなかった。彼女と別な方向へ出発した。旅行や仕事で精神を満たそうとつとめた。グラチアへ手紙を書いた。グラチアは二、三週間後に短い手紙で彼に答えた。そ
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