そしていつかは、彼がもう夢想してもいない大きな幸福を与えてやって、彼の妻となろうと考えていた。
 彼は彼女に断わられてからもう二度と結婚のことを口にしなかった。結婚なんかは自分に許されていないと思っていた。しかしその不可能な希望を愛惜する情は消えなかった。彼女の言葉をいかにも尊重してはいたが、結婚というものを批判する彼女の悟り澄ました態度には、やはり賛同できなかった。深い敬虔《けいけん》な愛で愛し合ってる二人の者の結合は、人間の幸福の絶頂であるということを、彼はなお信じつづけていた。――そして彼の未練の念は、アルノー老夫妻と出会ってさらに新たになった。
 アルノー夫人は五十歳を越していた。夫は六十五、六歳になっていた。二人とも年齢よりははるかに老《ふ》けていた。彼は肥満していたし、彼女は痩《や》せ細って少し皺《しわ》寄っていた。背からすでに細そりしていた彼女は、もはや息の根ばかりになっていた。夫が職を退いてから、二人は田舎《いなか》の家に隠退していた。二人を時代に結びつけるものは、配達される新聞ばかりだった。小さな町と眠ってる二人の生活との懶惰《らんだ》の中に、その新聞は世間の雑事の時
前へ 次へ
全340ページ中185ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング