なか達することができなかった。彼の性格には虚栄と不安とがあった。そして他の人々の混濁がさらに彼の混濁に加わっていた。
彼は隣の若い女と落ち着かない共同生活をしていた。クリストフが初めて来たとき出迎えた女がそれだった。彼女はエマニュエルを愛していて、細心に彼のめんどうをみてやり、彼の生活を整え、彼の作品を写し直し、彼の口述を書き取っていた。彼女はきれいではなかった。そして熱烈な魂をもっていた。平民の出であって、長い間ボール紙工場の女工をし、つぎには郵便局の雇員になって、その幼年時代に、パリーの貧しい労働者に通例な環境に苦しんできた。魂も身体も他人といっしょにつみ重ねられ、疲労の多い仕事をし、たえず人中に混じり、空気もなく、沈黙もなく、一人きりのこともなく、思いを澄ますこともできず、心の神聖な隠れ場を保つこともできなかった。けれども彼女は高慢な精神をもっていて、漠然《ばくぜん》たる真理の理想にたいして敬虔《けいけん》な熱情をいだいていたので、眼が疲れきるのもいとわずに、夜中、時とすると燈火もなく月の光で、ユーゴーのレ[#「レ」に傍点]・ミゼラブル[#「ミゼラブル」に傍点]を写し取っていた
前へ
次へ
全340ページ中128ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング