数と法則とを、汝は有している。夜の大空の野に煌《きら》めく畝《うね》をつける星辰《せいしん》――眼に見えぬ野人の手に扱われる銀の鋤《すき》――その平和を汝はもっている。

 音楽よ、清朗なる友よ、下界の太陽の荒々しい光に疲れた眼には、月光のごとき汝の光がいかに快いことであろう! 万人が水を飲まんとて足を踏み込み濁らしてる共同水飲み場から、顔をそむけた魂は、汝の胸に取りすがって、汝の乳房から夢想の乳の流れを吸う。音楽よ、処女なる母親よ、清浄なる胎内にあらゆる情熱を蔵しており、燈心草の色――氷塊を流す淡緑色の水の色――をしている両眼の湖《みずうみ》に、善と悪とを包み込んでいる汝は、悪を超越しまた善を超越している。汝のうちに逃げ込む者は世紀の外に生きる。その日々の連続はただ一つの日にすぎないであろう。すべてを噛《か》み砕く死もかえって己《おの》が歯をこわすであろう。

 私の痛める魂をなだめてくれた音楽よ、私の魂を平静に堅固に愉快になしてくれた音楽よ――私の愛であり幸《さち》である者よ――私は汝の純潔なる口に接吻《せっぷん》し、蜜《みつ》のごとき汝の髪に顔を埋め、汝のやさしい掌《たなごころ》に燃ゆる眼瞼《まぶた》を押しあてる。二人して口をつぐみ眼を閉じる。しかも私は汝の眼の得も言えぬ光を見、汝が無言の口の微笑《ほほえ》みを吸う。そして汝の胸に身を寄せかけながら、永遠の生の鼓動に耳を傾けるのだ。
[#改ページ]

     一


 クリストフはもはや過ぎ去る年月を数えない。一滴ずつ生は去ってゆく。しかし彼の[#「彼の」に傍点]生は他の所にある。それはもう物語をもたない。物語はただ彼が作る作品のみである。湧《わ》き出づる音楽の絶えざる歌は、魂を満たして、外界の擾音《じょうおん》を感じさせない。
 クリストフは打ち勝った。彼の名前は世を圧した。彼の髪は白くなった。老年がやってきた。しかしそれを彼は気にかけない。彼の心は常に若々しい。彼は自分の力と信念とを少しも捨てなかった。彼はふたたび平静を得ている。しかしそれはもはや燃ゆる荊[#「燃ゆる荊」に傍点]を通る前と同じではない。彼は自分の奥底に、暴風雨の轟《とどろ》きをまだもっているし、荒立った海が示してくれたある深淵《しんえん》の轟きをまだもっている。戦闘を統ぶる神の許しがなければ、だれもみずから自分の主であると自惚《うぬぼ》れ
前へ 次へ
全170ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング