階級がその利己心のために回復しがたいまでに失ってしまった権力を、ふたたび取り戻さんとつとめていた。それらの使徒たちが長く使徒的熱誠をもちつづけることは、きわめて稀《まれ》であった。最初のほどは、おそらく彼らの弁舌の天賦に相当する以上の成功が、その主旨のためにかち得られた。彼らの自尊心は得も言えぬ愉快を感じた。つぎには、なおつづけてゆくうちに、成功は減じてき、多少|滑稽《こっけい》ではあるまいかという人知れぬ恐れが生じた。そして、彼らのようにりっぱな趣味と懐疑の念とを有する人間にとっては演じがたい役目だったので、それをやりつづける疲労のために、長い間には右の恐れが増大してきて、それが優勢になりがちだった。彼らは退却するために、風と従者とから退却を許されるのを待ち受けた。なぜなら、彼らは風と従者との捕虜《ほりょ》となっていたから。それら新時代のヴォルテールやジョゼフ・ド・メーストルらは、その言論の大胆さの下に、怖気《おじけ》づいた不安定な心を隠していた。その心はしきりに形勢を探り、若い人々の非難を恐れ、彼らの気に入らんことをつとめ、彼らよりいっそう若い様子をせんとつとめていた。文学によって革命者もしくは反革命者になったのであって、みずから建設に協力してきた文学上の流行に、今は諦《あきら》めの念で従っていた。

 革命のそういう有産階級の小さな前衛隊の中で、オリヴィエが出会ったもっとも奇体な人物は、臆病《おくびょう》のために革命家となった人々だった。
 彼の眼前にいるその典型は、ピエール・カネーという男だった。富裕な中流階級に属していて、新思想にまったく理解のない保守的な家柄だった。代々裁判官や役人をしていて、政府に不平を並べたり免職されたりして名高くなった家柄で、教会に迎合し、ごくわずかではあるがしかしよい考えをもってる、マレーの大きな中流階級だった。カネーは無為|倦怠《けんたい》のために結婚した。相手の女は貴族の名前をもっていて、彼と同じくらいによい考えをもっていたが、彼以上の考えをもってはしなかった。ところが、たえず自分の自惚《うぬぼれ》と不満とを噛《か》みしめてるその頑迷《がんめい》な偏狭な時勢遅れの社会は、ついに彼をいらだたせた――妻が醜くてうるさい女だっただけになおさらだった。中庸な知力とかなり開けた精神とをもってた彼は、自由にたいする憧《あこが》れをいだいていた。けれどその憧れがどういうものであるかは自分でもはっきりわからなかった。自由のなんたるやを学び知ることは、彼の環境ではできなかった。彼が知ったことは、自由というものは自分の環境にはないということだけだった。そして、自分の環境から脱しさえすれば自由が見つかるだろうと想像した。が彼は一人で進むことができなかった。少しく外部へ踏み出すや否や、学生時代の友人らといっしょになるのを喜んだ。友人のある者は産業革命の思想に熱中していた。彼は脱出してきた社会におけるよりも、その社会ではいっそう他国にいる気がした。しかしそうだと自認したくはなかった。とにかくどこかで生きなければならなかった。そして自分と同じ色合いの連中(言い換えれば色合いのない連中)を、彼は見出すことができなかった。それでも神の眼から見れば、そういう連中はフランスに少なくはない。ただ彼らは自分自身を恥ずかしがっていて、身を隠しているか、あるいは、流行してる政治色彩の一つに、のみならず幾つにも、身を染めてるのである。
 いつもよくあるとおり、彼は自分ともっとも異なってる友人へとくに結びついた。魂の底ではフランスの田舎《いなか》の中流人であるこのフランス人は、若い医者でユダヤ人であるマヌース・ハイマンという男の、忠実なアカテスとなったのである。マヌースはロシアから逃亡してきたのであって、ロシア人の多くの者と同様に二重の才能を有していた。すなわち、他人のところに行っても自家におけるがようにすぐに落ち着くことができ、また、革命の遊戯とその主旨とどちらにより多く興味があるのか怪しまれるほど、あらゆる革命に楽々と身を処してゆけるのであった。自分の困難も他人の困難も、彼にとっては一つの娯楽であった。心からの革命主義者である彼は、その科学的精神の習慣によって、すべての革命家を(自分自身をもこめて)一種の精神病者だと見なしていた。その精神錯乱を培養しながら、それを観察していた。熱心な享楽心と極端に不安定な精神とのために、彼はもっとも反対な環境を求めていた。政府筋の者やまた警察官らのうちにまで知人をもっていた。人を不安ならしむるほどの好奇心で、至る所を探索していた。そういう好奇心は、多くのロシアの革命家らに二重の役割をしてるかの観を与え、時とするとその外観を事実となすものである。それは裏切りではなくて、単なる移り気である。しかもたいていその移り気には私心は含まれていない。実際行動を一つの芝居のごとく思って、正直ではあるがいつでも役目を変え得るりっぱな俳優のような態度をとる、いかに多くの実行家が世にあることだろう! マヌースは革命家の役目に、できうるかぎり忠実であった。それは、彼の生来の無政府的気質と通過する国々の掟《おきて》を破壊する喜びとに、もっとも適合した役割だった。がそれでもやはり、一つの役目にすぎなかった。彼の言論のうちに虚構と真実とがどれくらい交じり合っているかは、けっしてだれにもわからなかった。そして彼自身にも、ついにはそれがよくわからなくなっていた。
 怜悧《れいり》で嘲笑《ちょうしょう》的で、ユダヤとロシアとの両民族の機敏な心理をそなえ、自分の弱点とともに他人の弱点をも驚くほどよく読みとることができ、そしてそれを利用することに巧みだった彼は、容易にカネーを支配することができた。彼はこのサンチョ・パンサをドン・キホーテ流の暴挙に引き込むのを面白がった。彼はこの男の意志や時間や金銭を勝手に取り扱って、自分のためにではなく――(彼には何も入用なものがなかった。何によって彼が生活してるかはだれにもわからなかった。)――主義のもっとも危険な運動のために使用した。カネーはされるままになっていた。マヌースと同じ考えであるとみずから信じようとつとめた。が実は反対であることをよく知っていた。それらの思想は彼を脅かし、彼の良識と衝突した。また彼は民衆を好まなかった。そのうえ彼は勇敢でなかった。背の高い大柄な肥満した大男で、すっかり髯《ひげ》を剃《そ》ってのっぺりした顔をし、息が短く、丁寧《ていねい》な大袈裟《おおげさ》な子供じみた言葉つきで、ファルネーゼのヘラクレス像に見るような胸の筋肉をそなえ、拳闘《けんとう》や棒術にはみごとな力をもっていたが、実際はもっとも臆病な男だった。同階級の人々の間で破壊的な精神の所有者だと見なされてるのを自慢にしてはいたが、友人らの大胆さにたいしてはひそかに震え上がっていた。もちろんその小さな戦慄《せんりつ》は、事が単なる遊戯にすぎない間は別に不快でもなかった。しかし遊戯は危険なものとなっていった。同志の者らは攻撃的になってゆき、彼らの主張は大きくなっていった。カネーの胸底の利己心や、所有権についての根深い感情や、中流人的な無気力さなどは、それらの主張から不安を覚えさせられた。「君たちは僕をどこへ連れて行くのか、」とは彼もあえて尋ね得なかった。しかし、自分の首の骨を折ることばかりを好んでいて、また同時に他人の首の骨をも折るようになるかもしれないことなどは気にもかけないでいる、それらの人々の傍若無人な様子を、彼は心の中でののしっていた。――でも、だれがいったい彼について来いと強《し》いたか? 彼らの仲間を脱するのは彼の自由ではなかったか。ただ彼には勇気が欠けていた。彼は一人きりでいるのが恐《こわ》かった。途上で後方に取り残されて泣き出す子供のようだった。彼も多くの人々と同様だった。多くの者は自分でなんらの意見ももたない。もしもってるとすれば、熱烈な意見にはことごとく不賛成であるということくらいなものである。しかし独立するには、一人きりでいなければならないだろう。そして幾何《いくばく》の人にそれができるか? 同じ時代の万人の上にのしかかってくる、ある種の偏見や仮定の束縛から脱するだけの胆力をもってる者が、もっとも聡明《そうめい》なる人といえども幾人あるであろうか? それは言わば、自己と他人との間に城壁を築くことである。一方には沙漠《さばく》の中の自由、そして他方には、人間たち。彼らは躊躇《ちゅうちょ》しない。人間たちのほうを、家畜の群れのほうを、彼らは選ぶ。それは臭くはあるがしかし暖かい。そこで彼らは自分の考えてもいない事柄を考えてるようなふうをする。彼らにとってはそれは困難ではない。彼らは自分の考えてることをよく知ってはいない……。
「汝自身を知れ[#「汝自身を知れ」に傍点]!」……だが、ほとんど自我をもっていない彼らにどうしてそれができよう。宗教的なあるいは社会的なあらゆる集団的信仰のうちで、ほんとうに信じてる者は稀《まれ》である。なぜならほんとうに人間である者が稀だから。信仰は一つの勇壮な力である。古来信仰の火に燃やされたものは、わずかな人間の松明《たいまつ》にすぎない。その松明でさえも往々にして明滅しかける。使徒らや予言者らやイエスでさえも、疑惑をいだいたことがあった。その他のものは反映にすぎない――がただ、人の魂が乾燥しきってるある時期には、大きな松明から落ちた少しの火の粉が、全平原を焼きつくす。それから火事が消える。そしてもはや、灰の下に炭火が輝いてるのしか見えなくなる。キリストを実際に信じてるキリスト教徒は、わずかに数百人いるかいないかである。他の者らはみな、信じてると思ってるばかりであり、あるいは信じたがってるばかりである。
 革命家の多くも同様であった。善良なカネーも自分を革命家だと信じたがっていた。それでそうだと信じていた。そして自分自身の大胆さにおびえていた。

 それらの有産者らは皆、種々の原則に拠《よ》っていた、ある者は自分の心に、ある者は自分の理性に、またある者は自分の利益に。そしてその考え方を、福音書に則《のっと》ってる者もあり、ベルグソンに則ってる者もあり、その他、カール・マルクスやプルードンやジョゼフ・ド・メーストルやニーチェやジョルジュ・ソレルなど種々だった。流行により当世好みによって革命家となってる者もあれば、粗暴な気質によって革命家となってる者もあった。実行の要望によって、勇壮の熱誠によって、そうなってる者もあった。従属性によって、付和雷同の精神によって、そうなってる者もあった。しかし皆、みずから知らずして、風に吹きなびかせられてるのだった。それは塵埃《じんあい》の渦《うず》巻きであって、白い大道の上に遠く煙のように見えていて、突風の襲来を告げ知らしていた。

 オリヴィエとクリストフとは、風が来るのをながめていた。二人ともりっぱな眼をもっていた。しかし二人は同様の見方をしてはいなかった。オリヴィエは、その清澄な眼で人の下心をも洞見《どうけん》したので、人々の凡庸さに悲しみを覚えた。しかし彼はまた、人々を奮い起《た》たせてる隠れたる力をも認めた。そして事物の悲壮な光景にますます心打たれた。クリストフのほうはいっそう、人の滑稽《こっけい》な様子に敏感だった。彼が興味を覚えるのは人間についてであって、少しも観念についてではなかった。彼は観念にたいしては蔑視《べっし》的な無関心さを装っていた。彼は社会的理想郷をあざけっていた。反抗的な精神から、また、当時流行の病的な人道主義にたいする本能的な反動から、彼は実際以上の利己的な態度を示していた。自分で自分をこしらえ上げた人間であり、自分の筋肉と意志とを慢《ほこ》ってる強健な立身者たる彼は、みずから少しも力をもっていない人々を、やくざ者だと見なしがちであった。貧しくて孤独でいながら、彼は打ち勝つことができたのだった。他の人々も同様にするがよい……。社会問題だと! いったいいかなる問題ぞ? 貧困か?
「僕は貧困をよく知
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