っている。」と彼は言った。「僕の父や母や僕は、貧困を通り過ぎてきたのだ。要はただそれから脱しさえすればよいのだ。」
「それがだれにでもできるものではない。」とオリヴィエは言った。「病人や不運な人々にはできない。」
「そういう人々は助けてやればいい。ごく簡単なことだ。しかし助けることと、今日人がしているように彼らを称揚することとには、遠い隔たりがある。近来、もっとも強い者の忌むべき権利が削減されてきた。しかし僕に言わすれば、もっとも弱い者の権利のほうがなおいっそう忌むべきものであるかもしれない。それは現今の思想を萎靡《いび》させ、強者を虐《しいた》げ利用している。あたかも、病弱で貧乏で愚昧《ぐまい》で打ち負けてることが、一つの価値とでもなったかのようだ――強くて健康で打ち勝つことが、一つの不徳とでもなったかのようだ。そしてもっとも滑稽《こっけい》なのは、強者がそれをまっ先に信じてるということだ。……ねえオリヴィエ、喜劇のよい題材ではないか。」
「僕は他人を泣かせることより、自分が人の笑い事になるほうを好むのだ。」
「感心だ!」とクリストフは言った。「だれがそれに反対を唱えるものか。僕は佝僂《せむし》を見ると自分の背中が痛くなる……。だが喜劇というのは、われわれがそれを演じてるのであって、われわれがそれを書こうというのじゃないんだ。」
彼は社会的正義などという夢にとらわれてはいなかった。彼は通俗的な粗大な良識からして、前にあったことはあとにもあるだろうと信じていた。
「もしそのことを芸術について人から言われたら、君はさぞ憤慨するだろうじゃないか。」とオリヴィエは注意した。
「おそらくそうかもしれない。要するに僕は芸術にしか通じていないんだ。そして君も同様だ。僕は不案内な事柄を云々《うんぬん》する人々を信用しないよ。」
オリヴィエも信用してはいなかった。彼ら二人は、その疑念をやや大袈裟《おおげさ》なものになしていた。彼らはいつも政治の圏外に立っていた。オリヴィエは多少恥じらいながらも、選挙権を行使した記憶がないことを告白した。十年この方彼は、区役所に名前の登録さえしていなかった。
「無益だとわかってる喜劇にどうして加われるものか。」と彼は言った。「投票するというのか。いったいだれのために投票するんだ? 僕は候補者らのうちのだれを選んでよいかまったくわからない。彼らは僕にとっては皆同じく未知の男であるし、彼らが当選するや否や平素宣言してる信念に皆同じく裏切るだろうということを、多くの理由から僕は期待し得るのだ。彼らを監視し、彼らにその義務を思い起こさせようとすれば、僕の生涯《しょうがい》はそのために無駄《むだ》に過ごされてしまうだろう。僕にはそれだけの隙《ひま》もないし、力もないし、弁舌の才もないし、また実際行動のさまざまな不快を忍ぶだけの、図々しさも武装した心もないのだ。棄権したほうがずっとよい。甘んじて悪を忍ぶよ。が少なくとも、悪に自分の名を連ねたくはない。」
しかし極端な明察力をもってるにもかかわらず、彼は規則的な政治行動をきらいながらも、一つの革命に空想的な希望をつないでいた。彼はその希望が空想的なのをみずから知ってはいたが、少しもしりぞけようとはしなかった。それは一種の民族的な神秘気質だった。西欧のもっとも大なる破壊的な民衆に属することは、建設せんがために破壊し破壊せんがために建設する民衆に属することは、無事にできるものではない――観念と生活とをもてあそび、その遊戯をいっそうよくやり直さんがために、たえず万事を一掃してしまい、賭金としては自分の血潮を流す民衆、それに属することは。
クリストフはそういう遺伝的な救世主気質をもっていなかった。彼はあまりにゲルマン的であって、革命の観念をよく味わい得なかった。世界を変え得るものではないと考えていた。いかに多くの理論、いかに多くの言葉、なんという無益な喧騒《けんそう》ぞ!
「僕は自分の力を証明するために、」と彼は言った、「革命を起こす必要はない――あるいは、革命についての会合を催す必要はない。ことに、あれらの正直な若者たちのように、僕を保護してくれる一つの王かあるいは一つの保安委員会を立てるために、国家を転覆するの必要はない。そんなことをするとは、実に力の珍妙な証明法ではないか。僕はみずから自分を保護することができる。僕は無政府主義者ではない。必要な秩序を好むし、世界を統ぶる法則を尊敬する。しかしその法則と僕との間に、仲介者を僕は要しない。僕の意志は命令することも知ってるし、また服従することも知っている。いつも古典文学の句を引用してくる君たちは、コルネイユの言葉を思い出すがいい。『予は一人なり[#「予は一人なり」に傍点]、それにて十分なり[#「それにて十分なり」に傍点]。』一
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