がないとするならば、善良というものは存在しないことになり、正理というものは存在しないことになる……。
ああ、人間の行なう殺戮《さつりく》そのものも、世界の殺戮の中においてはわずかなものである。動物はたがいに食い合っている。穏やかな植物も、無言の樹木も、たがいに猛獣のごとき関係をもっている。森林の静穏さ、書物を通してしか自然を知らない文学者にとっては、たやすく美辞麗句の材料となる普通の場所……しかも、クリストフの家から数歩の所にある近くの森の中にも、恐るべき争闘が行なわれていた。殺害者の※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》は、美しい薔薇《ばら》色の身体をした樅《もみ》に飛びかかり、古代円柱のようにすらりとしたその胴体にからみついて、それを窒息さしていた。※[#「木+無」、第3水準1−86−12]はまた樫《かし》の上にも飛びついて、それを打ち砕き、それを自分の松葉杖としていた。百本の腕をもってるブリアレウスのような※[#「木+無」、第3水準1−86−12]、一株から十本もの幹が出ていた。周囲のものをことごとく枯死さしていた。そして敵がなくなると、たがいにぶつかり合い、猛然とからみ合い、裂き合い、膠着《こうちゃく》し合い、ねじ合って、大|洪水《こうずい》以前の怪物のようであった。森の下部のほうでは、アカシアが周辺から内部へ生え込んでいって、樅林を攻撃し、敵の根を締めつけかきむしり、分泌物でそれを毒殺していた。それこそ必死の争闘であって、勝利者は敗者の場所と遺骸とをともに奪い取っていた。するとこんどは小さな怪物が、大怪物のその事業を最後までやり遂げていた。根の間から生え出た茸《きのこ》が、病衰した樹木の汁を吸って、それをしだいに空洞《くうどう》になしていた。黒|蟻《あり》が朽木を砕いていた。眼に見えない無数の虫が、生ありしものを噛《か》み穿《うが》って、塵埃《じんあい》に帰せしめていた……。しかもそれらの戦いの静寂さ!……おう、自然の平和よ、生[#「生」に傍点]の痛ましい残忍な面貌《めんぼう》を覆《おお》ってる悲しい仮面よ!
クリストフはまっすぐに沈んでいった。しかし彼は腕を拱《こまね》いて争いもせず溺《おぼ》れてゆく人間ではなかった。いかに死にたがってたとは言え、生きんがためにできるだけのことをしていた。彼はモーツァルトが言ったように、「もはやなすべき
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