は解放された。魂の奥底に積もってるすべてのもの、嫉妬《しっと》、ひそかな憎悪、不純な好奇心、社会的動物に固有な悪意の本能などが、意趣返しの喜びをもって一度に騒然と爆発した。各人が往来へ飛び出し、用心深い仮面をつけて、広場のまん中で、嫌《いや》な奴を晒《さら》し台に上せ、気長な努力で一年間に知り得たすべてのことを、一滴一滴よせ集めた醜悪な秘密の宝全部を、通行人に見せつけてはばからなかった。ある者は車の上から大袈裟《おおげさ》に触れ歩いた。ある者は町の内緒話を文字や絵に書き現わした透かし燈籠《どうろう》を、方々へもち回った。ある者は敵の仮面をさえつけていて、しかもその仮面がすぐに見分けられるほどだったから、町の餓鬼小僧どもはその実名を名ざすことができた。幾つもの悪口新聞が、その三日の間に現われた。社交界の人々も多少、この諷刺《ふうし》の悪戯《いたずら》にこっそり関係していた。なんらの取り締まりも行なわれていなかった。ただ政治に関する事柄は例外だった――というのは、その辛辣《しんらつ》な自由の振る舞いが、町の当局者と他国の代表者らとの間に、何度も紛擾《ふんじょう》の原因となったからである。しかし町の人にたいして町の人を保護するものは何もなかった。そして、たえず眼前にぶら下がってる公然の侮辱という懸念は、この町がみずから誇りとしてる清浄潔白な外観を風俗中に維持するのに、多少役だたないでもなかった。
 アンナはそういう恐れの重みに圧倒されていた――しかもそれは条理の立たない恐れだった。彼女は恐るべき理由をあまりもってはいなかった。彼女は町の世論の中ではほとんど物の数でなかったので、彼女を攻撃しようとの考えを起こす者すらないはずだった。けれども彼女は、全然の孤独の中に引きこもってばかりいたし、また不眠の数週間を過ごしたため、心身は疲憊《ひはい》し神経は荒立っていたので、きわめて不道理な恐怖をも想像しがちになっていた。彼女は自分を好まない人々の憎悪を大袈裟《おおげさ》に考えていた。人々から嫌疑《けんぎ》をかけられてると思っていた。ちょっとしたことで身の破滅となるに十分だった。そんなことはないと言ってくれる者はだれもいなかった。もう侮辱ばかりであり、無慈悲な探索ばかりであり、通行人の眼前に裸の心をさらされるばかりだった。その残酷な不名誉は、思っただけでも恥ずかしくてたまらなかった。
前へ 次へ
全184ページ中145ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング