が失われる時間の一つであり、世紀の外に存在する時間であった。数日来の鋭い北風のあとに、湿った空気がにわかに和らいで、なま暖かく柔らかになっていた。空は雪をいっぱい含んで、その重みの下に低くしなっていた。
彼らは客間に二人きりだった。客間の冷やかな偏狭な趣味は、女主人の趣味を反映していた。二人は何も口をきかなかった。彼は書物を読んでいた。彼女は針仕事をしていた。彼は立ち上がって窓のところへ行った。その窓ガラスに大きい顔を押しあてて、じっと夢想にふけった。薄暗い空から鉛色の地上へ反射してるその蒼《あお》ざめた光は、彼の心を昏迷《こんめい》さした。彼の思いは乱れた。いくらその思いをはっきりさせようとしても、とらえることができなかった。ある悩みに浸されていった。自分がめいりこむような気がした。そして彼の一身の空虚の中に、積もり重なった廃墟《はいきょ》の奥から、一つの熱風がゆるやかに渦《うず》巻いて起こってきた。彼はアンナのほうへ背を向けていた。アンナは彼を見ないで仕事に没頭していた。しかし軽い戦慄《せんりつ》が彼女の身体を流れていた。何度も針を自分の身に刺したがそれを感じなかった。彼らは二人ともさし迫ってる危険に魅せられていた。
彼は惘然《ぼうぜん》たる状態から身をもぎ離して、室の中を少し歩いた。ピアノに心ひかれまた脅かされた。ピアノを見ないようにした。しかしそのそばを通りかかると、手を差し出さずにはいられなかった。手は一つの鍵《キー》に触れた。その音《おん》は声のように震えた。アンナはぞっとして仕事を取り落とした。クリストフはもう腰をおろしてひいていた。アンナが立ち上がり、やって来て、そばに立ってるのを、彼は眼に見ないでも気づいた。自分が何をしてるかも知らないで彼は、彼女が初めて正体を示して歌ったあの宗教的な熱烈な曲をひいた。またその主題に基づいて激越な変奏曲を即興にひいた。彼が一言もいわないのに、彼女は歌い始めた。二人は周囲の事柄をうち忘れた。音楽の神聖な熱狂にしかととらえられた……。
おう、魂の深淵《しんえん》をうち開く音楽よ! 汝は精神の平素の均衡を滅ぼす。尋常の生活においては、尋常の魂は閉《と》ざされたる室である。その内部にて、用途のないもろもろの力は、使用がはばかられる美徳や悪徳は、萎《な》えしぼんでゆく。実際的な賢い理性が、卑怯《ひきょう》な常識が、室
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