嫌悪の情からであって、みずからおのれを苦しめてほとんど意地悪い快楽を覚えてるのだった。ただ一つ例外として不思議なことには、祖母と同じく冷酷な彼女の精神は、どれほどの深さまでかは自分にもわからなかったが、音楽にたいして開かれていた。彼女は他の芸術には盲目だった。生涯《しょうがい》中に一枚の絵画もよくながめたことがないほどだった。造形美にたいしてはなんらの感覚ももたないらしかった。尊大な故意の無関心さで趣味を欠いていた。美しい身体の観念は、彼女には裸体の観念をしか呼び起こさなかった。言い換えれば、トルストイが語ってる百姓におけるがように、嫌悪《けんお》の感情をしか呼び起こさなかった。そうした嫌悪の情がアンナにはことに強かったわけは、自分の気に入った人たちとの関係において、審美的批判の穏やかな印象よりも、欲望の暗黙な針のほうをより多く、人知れず見てとっていたからである。彼女は自分自身の美貌《びぼう》については、自分の抑圧されてる本能の力についてと同じく、少しも気づいてはいなかった。否むしろ、それに気づこうとはしなかった。そして内心を偽る習慣によって、おのれを欺くことができたのだった。
 ブラウンはある結婚の宴会で彼女と出会った。彼女がそういう席に列してるのは例外だった。なぜなら、素性のよくないために引きつづき悪評をになっていて、ほとんど招待を受けたことがなかったのである。彼女は二十二歳になっていた。ブラウンは彼女に注目した。と言って彼女のほうから、彼に注目されようとつとめはしなかった。食卓で彼のそばにすわって、ぎこちない栄《は》えない様子をして、口を開いて話そうともほとんどしなかった。しかしブラウンは食事中、たえず彼女と話しつづけて、言い換えれば一人で話しつづけて、心酔しながら帰ってきた。彼はありふれた洞察《どうさつ》力によって、隣席の娘の初心な純潔の様子に心を打たれたのだった。彼女の良識と沈着とに感心したのだった。また彼女のりっぱな健康と彼女がもっていそうに思われる堅実な主婦的特長とを尊重した。彼はその祖母を訪問し、それを繰り返し、結婚の申し込みをし、そして承諾された。嫁入り財産はなかった。サンフル老夫人は商業上の仕事のために、家の財産をすべて町に遺贈してしまっていた。
 この若い細君は、いかなるときも夫にたいして愛情をいだいたことがなかった。愛情などという考えは、正直
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