アンナのおかしな行動には馴《な》れきっていたので、別に注意もしなかった。
 一時間ばかりたって彼は、ブラウンやアンナといっしょに晩を過ごすことになってる、小さな客間にもどって来た。ランプの下でテーブルについて、書きつづけた。アンナはそのテーブルの右手の端にすわって、かがみ込んで仕事をしていた。二人の後ろで、暖炉のそばの低い肱掛椅子《ひじかけいす》にすわって、ブラウンは雑誌を読んでいた。三人とも黙っていた。庭の砂の上に、間を置いてばらばらと降る雨の音が聞こえていた。クリストフはまったく一人きりの気特になるために、斜めにすわってアンナへ背中を向けていた。彼の前の壁には大鏡がついていて、テーブルやランプや、仕事にかがみ込んでる二人の顔を、写し出していた。クリストフはアンナからながめられてる気がした。初めはそれをなんとも思わなかった。けれどもやがて、その考えがしつこくつきまとって心が乱されたので、鏡のほうへ眼をあげて見た……。果たして彼女は彼をながめていた。なんという眼つきだろう! 彼はそれを見守りながら息を凝《こ》らして堅くなった。彼女は彼から見守られてることを知らなかった。ランプの光が彼女の蒼白《あおじろ》い顔の上に落ちて、そのいつもの真面目《まじめ》さと沈黙とは、思いつめた激しい性質を帯びていた。その眼は――かつて彼がとらえ得なかった未知の眼は――彼の上にすえられていた。瞳《ひとみ》の大きな、燃えたったきびしい視線の、青黒い眼だった。黙々たる頑固《がんこ》な熱烈さで、彼を見つめて、彼の内部を穿鑿《せんさく》していた。それは彼女の眼だろうか? 彼女の眼であり得るだろうか? 彼はそれを見て、彼女の眼だとは信じかねた。彼が見てるのはほんとうに彼女の眼だったろうか? 彼はにわかに振り向いた……。その眼はもう伏せられていた。彼は彼女に話しかけて、自分のほうを真正面に見させようとしてみた。しかし彼女の冷静な顔は仕事から眼もあげずに返辞をした。その眼つきは、短い濃い睫毛《まつげ》のある青っぽい眼瞼《まぶた》が落とす見通せない影の下に隠れていた。もしクリストフに自信の念がなかったら、幻影に弄《もてあそ》ばれたのだと思ったであろう。しかし彼は何を見たかを知っていた……。
 けれども、彼は仕事に心を奪われていたし、アンナにあまり興味をもたなかったので、その不思議な印象に長くかかわってはい
前へ 次へ
全184ページ中109ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング