外である。世の中の槓桿《てこ》とも言うべき種族の本能以外には、その宇宙的な力以外には、ただ塵埃《じんあい》のごとき情緒が存するばかりである。大多数の人間は、なんらかの熱情に全身をささげるほど十分の活力をもっていない。彼らは用心深い吝嗇《りんしょく》さでおのれを倹約している。万事に少しずつかかわって、何事にも全身を打ちこみはしない。すべて自分のなすことに、すべて自分の苦しむことに、すべて自分の愛することに、すべて自分の憎むことに、無制限に没頭する者こそ、驚異に価する人であり、この世で出会い得るもっとも偉大な人である。熱情こそは天才のごときものであり、一つの奇跡である。ほとんど存在しないと言ってもよい……。
そういうふうにクリストフは考えていた。がそれについて、人生は恐ろしい否認を彼に投げつけようとしていた。石の中にも火があるように、奇跡は至る所にある。一撃のもとにそれは迸《ほとばし》り出る。吾人は吾人のうちに眠ってる悪魔を夢にも知らないのだ……。
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……予を醒まさざるよう声低く語れよ[#「予を醒まさざるよう声低く語れよ」に傍点]!……
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ある晩クリストフが即興的にピアノをひいていると、アンナは彼の演奏中にしばしばなすとおり、ふいに立ち上がって出て行った。音楽を嫌《いや》がってるがようだった。クリストフはもうそれを気にとめなかった。彼女がどう考えようと平気だった。そしてなおひきつづけた。それから、その即興の曲を書き止めてみたくなって、ひくのをやめ、必要な紙を取りに自分の室へ駆け出した。隣の室の扉《とびら》を開き、俯向《うつむ》きながら暗闇の中へつき進んでゆくと、その入り口にじっと佇《たたず》んでる人の身体に激しくつき当たった。アンナだ……。その衝突と驚きとのために、彼女は声をたてた。クリストフは怪我《けが》でもさせやしなかったかと心配して、やさしく彼女の両手を取った。その手は冷たかった。彼女は身震いしてるらしかった――おそらく驚きのためだったろう? 彼女は口ごもりながら、そこにいたわけを曖昧《あいまい》に述べたてた。
「食堂でちょっと……捜していましたので。」
何を捜していたかを彼は聞きもらした。たぶん彼女もそれを言わなかったのだろう。物を捜すのに燈火もつけないでうろうろしてるのが、彼には変に思われた。しかし彼は
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