先に言葉をかけることなんか嘗《かつ》てなかった。挙動や服装の無作法さ、その無器用さや冷淡さは、クリストフのように女性の優姿に敏感な者を、すべて遠ざけるほどだった。クリストフはパリー婦人の霊妙な優美さを思い起こしては、アンナをながめながら、こう考えずにはいられなかった。
「なんて醜いんだろう!」
でもそれは正当ではなかった。やがて彼は、彼女の髪や手や口の美しさに気づいた――いつもそらされてばかりいる彼女の視線にたまに出会うと、その眼の美しさに気づいた。しかし彼の判断はそのために変わりはしなかった。彼は礼儀上彼女へ強《し》いて話しかけた。話題を見つけるのに骨が折れた。彼女はそれを少しも助けてくれなかった。二、三度彼は、町のことや夫のことや彼女自身のことを尋ねかけてみた。が何にも聞き出し得なかった。彼女はありふれた答えばかりをした。つとめて微笑《ほほえ》んでいたが、その努力も不愉快な感じを与えるものだった。微笑は無理なものであり、声は重々しかった。一語一語語尾を切り、一句一句に苦しい沈黙がつづいた。クリストフもついにはできるだけ話しかけなくなった。彼女にはそのほうがありがたかった。医師が帰ってくると二人はほっとした。医師はいつも上機嫌《じょうきげん》で、騒々しくて、せかせかして、俗っぽくて、好人物だった。盛んに食い飲み語り笑った。彼といっしょだとアンナも少し口をきいた。しかし二人の話はたいていいつも、食べてる料理のことや品物の価のことばかりだった。時とするとブラウンは、彼女の宗教上の仕事や牧師の説教などについて、彼女をからかって面白がった。すると彼女は固苦しい様子をし、食事が済むまでむっつり黙り込んだ。彼はまたしばしば往診の話をした。好んで嫌《いや》な患者のことを述べたて、あまり微細にしゃべりたてるので、クリストフは憤慨した。ナプキンを食卓に放り出し、嫌悪《けんお》の渋面をして立ち上がった。それがブラウンには面白かった。ブラウンはすぐに話しやめて、笑いながらなだめた。がそのつぎの食事のときにもまた話し出した。病気に関するそれらの冗談には、冷然たるアンナを歓《よろこ》ばせる力があるかのようだった。彼女は沈黙を破って、突然神経質に、何かしら動物的な笑いをたてるのだった。おそらく彼女は自分が笑ってる事柄にたいしては、クリストフに劣らぬ嫌悪《けんお》の情を覚えていたのであろう。
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