うに見えるけれど、しかしなおそこで、魂を腐蝕《ふしょく》しつづけるものである。――とバルザックは言っている。

 クリストフをよく知ってる人で、クリストフが行ったり来たり話したり作曲したり笑いまでするのを――(彼は今では笑っていたのである!)――よく観察する者があったならば、この活気に燃えたった眼をしてる強健な男のうちに、その生の奥底に、ある破壊されたものがあることを、感じたであろう。

 彼は生に立ち直ってからは、糊口《ここう》の方法を安全にしなければならなかった。その町を去ることは彼にとって問題であり得なかった。スイスはもっとも安全な避難所だった。そしてまた、どこでこれ以上の親切な待遇を見出し得よう?……しかし彼の自尊心は、友の世話になってるという考えに晏如《あんじょ》たることができなかった。ブラウンは言い逆らって、何も受け取ろうとしなかったけれど、彼はある音楽教授の口を見つけて、一定の宿料を払い得るようになるまでは、安心がゆかなかった。それはたやすいことではなかった。彼の革命的暴挙の噂《うわさ》は広まっていた。そして中流人の家庭では、危険人物だとされてる男、もしくは結局並みはずれた人物だとされ、その結果あまり「穏当」でない人物だとされてる男を、家に入れることをいやがった。それでも、彼の音楽上の名声とブラウンの尽力とで、四、五の家庭に近づくことができた。それらの家庭は、さまで小心翼々としてないかあるいはいっそう好奇心に富んでるかしていて、おそらく芸術上の見栄から奇を衒《てら》いたがってたのであろう。とは言え、きわめて注意深く彼を監視して、師弟の間に適宜な距離を保たしめていた。
 ブラウンの家では、生活が一定の規則正しい方式で整えられた。午前中は各自に自分の仕事にかかった。医師は往珍に出かけ、クリストフは教えに出かけ、ブラウン夫人は買い物や信心深い仕事におもむいた。クリストフはたいていブラウンより先に一時ごろ帰ってきた。ブラウンは自分の帰りを待たせないようにしていた。それで彼は若い夫人といっしょに食卓についた。それはあまり愉快なことではなかった。彼女は彼に同情をもっていなかったし、彼は彼女に何にも話すことがなかった。そういう感じを彼女は意識せざるを得なかったが、しかし少しも打開しようとは骨折らなかった。彼女は化粧にも才知にも気を配らなかった。クリストフへこちらから
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