た。クリストフは、そのわざわざ声をひそめた沈黙が気にさわって、やはり今までどおりの暮らし方をしてくれとブラウンに願わなければならなかった。
それからあとは、もうだれもクリストフに構わなかった。クリストフは室の片隅に幾時間もすわっていたり、あるいは家の中を歩き回ったりして、あたかも夢みてる人のようだった。何を考えていたのか? 自分でもそれを言い得なかったであろう。苦しむだけの力さえももうほとんどもっていなかった。困憊《こんぱい》の極に達していた。心の干乾《ひから》びたことが恐ろしかった。彼はただ一つの願望しかもっていなかった、すなわち、彼[#「彼」に傍点]といっしょに埋められ、すべてが終わること。――一度彼は庭の扉《とびら》が開いてるのを見て、外に出てみた。しかし外光の中に出ると非常に苦しい心地がして、急いで家の中にもどり、雨戸を閉ざして室に蟄居《ちっきょ》した。晴天の日を彼は苦にした。太陽の光をきらった。自然の荒々しい晴朗さに圧倒された。食卓では、ブラウンが勧めてくれるものを黙って食べ、眼をテーブルの上に伏せて口をつぐんでいた。ブラウンはある日客間で、彼にピアノを指《さ》し示した。彼はぞっとしてピアノから顔をそむけた。あらゆる音が忌まわしかった。沈黙、沈黙、そして闇夜!……彼のうちにはもはや、空虚と空虚の欲求としかなかった。生の喜びは終わりを告げ、昔歌いながら勢いにかられて舞い上がっていたあの力強い歓喜の小鳥は、もう終わりを告げていた。幾日も自分の室の中にすわって、自分の生について感ずるものはただ、頭の中に響いてるように思われる隣室の掛時計の跛の音のみだった。それでも、歓喜の粗野な小鳥はまだ彼のうちにいて、突然に飛びたっては籠《かご》の格子にぶつかっていた。そして魂の底には、恐ろしい苦悩の騒擾《そうじょう》が起こった――「広漠たる人なき空間にただ一人いる悩みの叫び[#「広漠たる人なき空間にただ一人いる悩みの叫び」に傍点]」が……。
世にもっとも悲惨なのは、ほとんど一人の伴侶《はんりょ》もいないということである。女の道連れや一時の友などはあり得る。友というりっぱな名前をもってる者はたくさんある。しかし実際においては、生涯にほとんど一人の友しかいないものである。そしてそういう友をもってる者もきわめてまれである。しかし友をもってる幸福は非常に大きいので、その友がいなく
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