一々見守りながら、ひそかな敵意を覚えさせられた。それでも彼は、彼女が口をきこうとしないのがありがたかった。――彼女の出て行ったあとで医師がやって来ると、なおいっそうそれがありがたく思えた。医師はクリストフが初めの食事に手をつけなかったのに気づいたのだった。彼女が無理にも食べさせなかったことを怒って、こんどは自分でぜひとも食べさせようとした。クリストフは静穏を欲して、牛乳を少し飲みくだした。それから彼のほうへ背を向けた。
 二日目の夜は最初の夜より穏やかだった。重い眠りがクリストフを虚無のうちに連れ去った。もう呪《のろ》わしい生の跡方もなかった。――しかし眼覚《めざ》めはいっそう息苦しいものだった。彼はあの因果な一日のことを、オリヴィエが外出を嫌《いや》がったことや帰ろうと切願したことなど、すべてのことを詳細に思い出した。そして絶望の念をもってみずから言った。
「彼を殺したのは自分だ……。」
 一人でじっと室に閉じこもっていると、獰猛《どうもう》な眼をしたスフィンクスの爪《つめ》に引っつかまれ、その死骸《しがい》の息吹《いぶ》きとともに、眼がくらむような問いを真正面に吹きかけられた。それを堪え得ないで、彼は熱に浮かされたように立ち上がった。室の外にたどり出で、階段を降りていった。他人にすがりつきたい本能的な臆病《おくびょう》な要求に駆られていた。しかも、もし見知らぬ声を聞いたらすぐに逃げ出したかもしれなかった。
 ブラウンは食堂にいた。例のとおり大袈裟《おおげさ》な友情を示しながらクリストフを迎えた。そしてすぐにパリーでの出来事を尋ね始めた。クリストフは彼の腕をとらえた。
「いや、」と彼は言った、「何にも尋ねないでくれたまえ。あとのことにして……。悪く思っちゃいけないよ。僕は今話せないんだ。たまらなく疲れてる、疲れきってるんだ……。」
「わかってるよ、わかってるよ。」とブラウンはやさしく言った、「神経が痛められてるんだ。 数日前からの感動のせいだ。話さないがいい。何にも遠慮しちゃいけない。勝手にしていたまえ。自分の家同様だ。少しも差し出がましいことはしないようにするよ。」
 彼はその言葉を守った。客を疲らすまいとして、平素とまったく反対の振る舞いをした。クリストフの前では妻ともろくに話をしなくなった。小声で口をきき爪立《つまだ》って歩いた。家じゅうがひっそりしてしまっ
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