はいけません。あなたがたは自分で気づかずにひどく利己的です。あなたがたは女にたいして、自分で気づかずに多くの悪を行なっていられます。」
「だってしかたありませんよ。それはわれわれのせいではないんです。」
「ええ、あなたがたのせいではありませんとも、クリストフさん。あなたがたのせいでもなければ、私たちのせいでもありません。つまりは、生活というものがけっして単純なものでないからです。自然な生活をするばかりだ、という人もあります。けれども、いったいどんなことが自然なのでしょう?」
「まったくです。われわれの生活には自然なものは何もありません。独身も自然ではありません。結婚も自然ではありません。そして自由結婚は、弱者を強者の貪食《どんしょく》に任せるばかりです。われわれの社会そのものからして、自然なものではありません。われわれの手でこしらえ上げたものです。人間は社交的動物だと言われていますが、なんという馬鹿げたことでしょう! 生きるためにそうならざるを得なかったのです。自分を役だたせんがために、自分の身を守らんがために、快楽を得んがために、偉くならんがために、社交的になったのです。そういう必要上、いろんな約束を結ぶようになったのです。しかし自然は反抗して、そうした無理を復讐《ふくしゅう》します。自然はわれわれのためにできてはしません。われわれはその自然を変形させようとします。それは一つの戦いです。われわれのほうがたいてい打ち負かされるのは、驚くに当たりません。これを脱するにはどうしたらいいでしょう?――強者にならなければいけません。」
「善良な者にならなければいけません。」
「そう、善良な者になることです。利己心の胸当てを取り去り、よく呼吸し、人生を、光明を、自分の見すぼらしい仕事を、自分が根をおろしてる一隅《いちぐう》の土地を、愛することです! あたかも狭い所にある樹木が太陽のほうへ伸び上がってゆくように、遠い地平に得られないものを、深さや高さにおいて得ようと努力することです!」
「そうですよ。そしてまず第一に、たがいに愛し合うことです。男は女の兄弟であって、女の餌食《えじき》ではないということや、女は男の餌食であるべきでないということを、男がもっとよく感じようとさえしますならば! 両方でたがいに自分の慢《おご》りを投げ捨てて、自分のことをもっと少なく考え相手のことをもっと多く考えようとさえしますならば!……私たち女は弱い者なんです。私たちを助けてくださらなければいけません。つまずいた者に向かって、『俺《おれ》はもうお前のことなんか知らない、』などと言わないで、『しっかりおしよ、いっしょに抜け出そうよ、』と言っておやりなさらなければいけません。」
二人は暖炉の前にすわって口をつぐみ、小猫《こねこ》がその間にうずくまっていた。三人ともじっと考え込んで、暖炉の火をながめていた。消えかかってる炎は、いつにない内心の興奮のために赧《あか》くなってるアルノー夫人の細《ほっ》そりした顔を、ひらひらと燃えたつごとに照らしていた。彼女はこんなに心を打ち開いたことを自分でも驚いていた。かつて彼女はこんなに多くしゃべったことがなかった。また今後とてもこんなにしゃべることはおそらくないだろう。
彼女はクリストフの手の上に自分の手をのせて言った。
「あなたがたは子供をどうなさいますの?」
それは彼女が初めから考えてる問題だった。彼女はいろいろ述べたてた。まるで人が違ったようになり、酔ってるかのようだった。しかし彼女はこの問題だけを考えてるのだった。クリストフの言葉を初め少し聞くや否や、彼女は心の中に一つの小説を組み立てていた。母親から見捨てられた子供のこと、その子供を育て上げてやる喜び、その小さな魂のまわりに自分の夢想や愛情を編み出す喜び、などを彼女は考えていた。そしてみずから言っていた。
「いやこれはいけないことだ。他人には不幸である事柄を、私が楽しんではいけない。」
しかしそれは彼女の自由にはならなかった。彼女はつぎからつぎへと述べたてた。そして彼女の黙々たる心は希望に浸されていた。
クリストフは言った。
「ええもちろん、僕たちは子供のことも考えました。かわいそうな子供です。オリヴィエも僕もそれを育てることはできません。女の人から世話してもらわなければなりません。だれか知人の女から助けてもらえたらと考えたんです……。」
アルノー夫人はほとんど息もつけなかった。
クリストフは言った。
「僕はあなたにそのことをお話しするつもりでした。ところがちょうど先ほどセシルがやって来ました。そして事情を知って、子供を見ると、彼女はたいへん心を動かされて、非常に喜ばしい様子をして、私に言うんです、『クリストフさん……。』」
アルノー夫人は血の流れも止まった。その後のことは耳にもはいらなかった。眼の前が何もかも混乱した。彼女は叫び出したかった。
「いいえ、いいえ、私に子供をください……。」
クリストフは話しつづけていた。彼女にはその言葉も聞こえなかった。けれど彼女は我を押えようと努力した。セシルがそれとなく打ち明けた事柄に思いをはせた。彼女は考えた。
「私によりもあの女にはいっそう子供が必要なのだ。私には親愛なアルノーもあるし……それから、いろんなものもあるし……それから、私のほうが年もとっている……。」
そして彼女は微笑《ほほえ》んで言った。
「それがよろしいでしょう。」
しかし、暖炉の炎は消えていたし、顔の赧《あか》みも消えていた。そのやさしい疲れた顔にはもはや、いつものあきらめきった温良さの表情があるばかりだった。
「愛する者に裏切られた。」
そういう考えにオリヴィエは圧倒されていた。クリストフは愛情のあまり、彼をきびしく鞭撻《べんたつ》してやったが、その甲斐《かい》もなかった。
「しかたがないさ。」とクリストフは言った。「味方から裏切られることなんかは、病気や貧困や馬鹿どもとの戦いと同じように、ごくありふれた試練なんだ。それにたいして武装していなければいけない。それに抵抗できないなどとは、憐《あわ》れな人間にすぎない。」
「ああ、僕はまったく憐れな人間なんだ。それを誇りとはしていないが……。まったくだ、情愛が必要で、それをなくすれば死ぬよりほかはない、憐れな人間なんだ。」
「君の生活はまだ終わってはしない。他に愛すべき者がいくらもあるよ。」
「僕はもうだれをも信じない。友もない。」
「おい、オリヴィエ!」
「いや許してくれ。僕は君を疑ってやしない。時とすると、すべてを……自分をも……疑うようなことはあっても……。けれど、君は強者だし、だれをも必要としないし、この僕がいなくても済ましてゆける。」
「彼女のほうが僕よりもいっそうよく、君がいなくても済ましてゆけるさ。」
「君は残酷だね、クリストフ。」
「ねえ君、僕は君をいじめてるよ。しかしそれは君を発奮させるためなんだ。なんということだ! 自分を愛してくれる人たちを犠牲にして、自分をあざけってるだれかに生命をささげるなどとは、実際恥ずべきことだ。」
「僕を愛してくれる人たちも僕に何になろう! 僕は彼女をこそ愛してるのだ。」
「働きたまえ。昔君が興味をもってた事柄は……。」
「……もう僕には面白くないのだ。僕は疲れてる。人生の外に出てしまったような気がする。何もかも僕には、遠く……遠く思われる。いくら見ても、もう何にもわからない……。時計のような機械的な仕事を、無味乾燥な務めを、新聞紙的な議論を、快楽のつまらない追求を、毎日あかずに繰り返してる人々、ある内閣や書物や役者などに夢中になって賛成したり反対したりしてる人々が、世の中にあるかと考えると……。ああ、僕はひどく老い込んだ気がする。僕はもうだれにたいしても、憎しみも恨みも感じない。何もかも嫌《いや》だ。何にもないという気がする……。物を書けというのか。なんのために書くのだ? だれが理解してくれよう? 僕がこれまで書いていたのも、ただ一人の者のためにだった。僕がこれまで何かであったのは、すべてその一人の者のためにだった……。もう何にもない。僕は疲れてるのだ、クリストフ、疲れてるのだ。僕は眠りたい。」
「じゃあ眠りたまえ。僕が番をしてあげよう。」
しかしオリヴィエはなかなか眠れなかった。ああ、苦しんでる者が、数か月間、苦悶《くもん》が消えて一身が新しくなるまで、まったく別人となるまで、もし眠ることができさえするならば! しかし人はそういう能力をもつことはできない。またそれを望みもしない。苦しみを奪われることこそもっとも悪い苦しみなのである。オリヴィエは自分の熱で身を養ってる熱病患者に似ていた。ほんとうの熱に犯されていて、一定の時間に、ことに夕方、日の光が消えてゆくころから、その発作が現われてきた。その他の時は、しきりに傷心し、恋愛に中毒し、追憶に悩まされ、あたかも一口の食物を嚥下《えんか》し得ないで反嚼《はんしゃく》してる白痴のように、同じ考えばかり繰り返し、頭脳の力はすべてただ一つの固定観念に吸い取られていた。
彼は、クリストフのように、自分の不幸を呪《のろ》い、不幸の原因たる彼女を真正面からののしる、などという術《すべ》を心得なかった。彼はクリストフよりいっそう明知で公正だったので、自分にも責任があることや、自分一人だけが苦しんでるのでないことを、よく知っていた。ジャックリーヌもまた被害者なのだった――彼女は彼の被害者だった。彼女は彼に信頼していた。それを彼はどうしたのであったか? 彼女を幸福にする力がなかったのなら、なにゆえに彼女を自分に結合さしたのか? 彼女は自分を害する絆《きずな》を断って、当然なことをしたまでである。
「彼女が悪いのではない。」と彼は考えた。「私が悪いのだ。私は誤った愛し方をした。私は深く彼女を愛していた。けれども、彼女に私を愛させることができなかった以上は、私は彼女をほんとうに愛する道を知らなかったのだ。」
かくて彼は自分をとがめた。おそらくそれが正当だったろう。しかし過去のことを云々《うんぬん》してもそれは大して役にたちはしない。いくら云々したところで、繰り返されるべきことは繰り返される。そして生きることをできなくなす。強者は、人からなされた善を忘れる――のみならずまた、悲しくも、自分のなした害を自分の力で贖《あがな》い得ないと知れば、それをもただちに忘れてしまう。しかし人は、理性によって強者になるのではなく、熱情によって強者になるのである。愛と熱情とはたがいに縁遠い。いっしょに連れだつことはめったにない。オリヴィエは愛していた。彼が強いのは自分自身に反する方面にばかりだった。一度受動的な状態に陥ると、あらゆる病苦にとらえられた。流行感冒、気管支炎、肺炎などが彼に襲いかかった。その夏の大半は病気だった。クリストフはアルノー夫人に助けられて、手厚い看護をした。そして二人は病気を阻止することができた。しかし精神上の病苦にたいしては、二人はまったく無力だった。彼の絶えざる悲しみから受ける有害な疲労と、その悲しみのもとから逃げ出したい欲求とを、二人はしだいに感じだした。
不幸は、不思議な寂寞《せきばく》のうちに当の人を陥《おとしい》れるものである。一般に人は不幸を本能的に嫌悪《けんお》する。あたかも不幸が伝染しはすまいかと恐れてるかのようである。かりに一歩譲っても、不幸は人に嫌気《いやけ》を起こさせる。人は不幸から逃げ出してしまう。苦しむのを許してやる者はきわめて少ない。ヨブの友人らの古い話といつも同じである。テマン人《びと》ユリパズは、ヨブの短慮を責める。シュヒ人《びと》ビルダデは、ヨブの不幸はその罪の罰であると主張する。ナアマ人《びと》ゾパルは、ヨブを僭越《せんえつ》であるとする。「時に[#「時に」に傍点]、ラムの[#「ラムの」に傍点]族《やから》ブジ人バラケルの子エリフ[#「ブジ人バラケルの子エリフ」に傍点]、大なる怒りを[#「大なる怒りを」に傍点]発《おこ》せり[#「せり」に傍点]、ヨブ
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