いに恥ずかしかった。ああ、たがいに幸福にし合うことができないとは!
「ねえあなた、」と彼女は悲しげにやさしげに微笑《ほほえ》みながら言った、「私たちはほんとに間抜け者ではなくって? こんないい仕合わせは、こんな友情は、もう二度と見つからないでしょう。けれどしかたがないわ、どうにもしかたがないわ。私たちはあんまり馬鹿ですわ!……」
 二人はきまり悪げにまた悲しげに顔を見合わした。泣くまいとして笑った。たがいに抱擁し合った。そして眼に涙を浮かべながら別れた。別れるときくらい深く愛し合ったことはなかった。

 そして彼女が立ち去った後、彼はふたたび芸術へ立ちもどった、自分の古い伴侶《はんりょ》のもとへ……。おう、星をちりばめた空の平和よ!……

 それからしばらくしてのことだったが、クリストフはジャックリーヌから一通の手紙を受け取った。彼女から手紙をもらったのはそれが三度目にすぎなかった。ところがその手紙の調子は、いつもの彼女の調子とはすっかり変わっていた。もう長く会わないでいる遺憾さを述べて、彼を愛してる二人の友を悲しませるつもりでないのなら来ていただきたいと、やさしく彼を招いていた。クリストフはたいへん喜んだ。けれど別に不思議がりはしなかった。自分にたいするジャックリーヌの不正な気持は長くつづくものではないと、彼は考えていたのだった。老祖父の嘲弄《ちょうろう》的な言葉をいつも好んでみずから繰り返していた。
 ――おそかれ早かれ、女には善良な時がやってくるものだ。気長くその時を待っていさえすればよい。
 で彼はオリヴィエの家へ出かけていった。そして喜んで迎えられた。ジャックリーヌは彼にたいしてたいへん注意深い態度を見せた。生来の皮肉の調子を避けて、クリストフの気にさわりそうなことは言わないように用心し、彼の仕事に同情を示し、真面目《まじめ》な話題について賢い口をきいた。クリストフは彼女が一変したのだと思った。しかし彼女は彼の気に入らんためにのみ一変したのだった。彼女はクリストフと世に流行《はや》ってる女優との情事を耳にしていた。その話はパリーじゅうの噂《うわさ》の種となっていた。そしてクリストフは、まったく新しい光に包まれてるように彼女には思われた。彼女は彼にたいする好奇心にとらわれた。彼に会ってみると、以前よりはずっと多く同情がもてた。彼の欠点さえも面白く思えないではなかった。クリストフが天才をもってることや、人から愛されるだけの価値があることなどを、彼女は気づいた。
 若夫婦の状態は少しもよくなっていなかった。悪くなってさえいた。ジャックリーヌは退屈しぬいていた……。女はなんという孤独なものであろう! 子供以外には何も女を支持するものはない。そして子供でさえも、女を常に支持するには足りない。単に女性であるというばかりではなくほんとうに女であって、豊かな魂とめんどうな生活とをもってる場合には、女は非常に多くの務めを帯びるようにできてるもので、人に助けられなければ、その務めをなしとげることはできないのである……。男は女よりはるかに孤独ではない。一人きりのときでさえそうである。その独語は寂寞《せきばく》を満たすに足りる。また結婚して孤独の場合には、なおよくそれに甘んじ得られる。なぜなら、それに気づくことが少なく、いつも独語ばかりしているから。そして、寂寞の中で自若としてみずから語りつづけるその声の響きは、彼のそばにいる女にとっては、愛に勢いづけられていない言葉はすべて死語と感ずる女にとっては、沈黙をますます恐ろしいものとなし、寂寞をますます堪えがたいものとなすのであるが、彼はそれを夢にも知らない。彼はそれを見てとらない。彼は女のように自分の生活全部を担保として、愛の上に賭《か》けたのではない。彼の生活は他のほうで満たされている……。しかるに、女の生活やその広大な願望は、何が満たしてくれるであろうか。人類が引きつづいてる四十世紀の間、一時の愛と母性というただ二つの偶像に燔祭《はんさい》としてささげられて、いたずらに燃えつくしてる、その熱烈|豊饒《ほうじょう》な力をもってる無数の女を、何が満たしてくれるであろうか? そして右の二つの偶像さえ、実は崇高な欺瞞《ぎまん》であって、しかも女のうちの多くの者には拒まれており、その他の女の生活を充実させるのも数年間のことにすぎない。
 ジャックリーヌは絶望していた。刃《やいば》ように自分を突き通す恐怖を、ときどき感ずることがあった。彼女は考えた。
「なんのために私は生きてるのだろう? なんのために生まれてきたのだろう?」
 そして彼女の心は悶《もだ》え苦しんだ。
「ああ私はもう死ぬのだ、もう死ぬのだ!」
 その考えが彼女につきまとい、夜中にまで追っかけてきた。彼女は自分がこう言ってる夢をみた。
 ――一八八九年だ。
 ――いや、一九〇九年だ。――とだれかが答えた。
 彼女は自分が思ってたよりも二十年も年上なのにがっかりした。
「もうおしまいだ。それなのに私はほんとうに生きたこともなかった。この二十年間を私はどうしたのだろう? 自分の生涯《しょうがい》を私はどうしたのだろう?」
 彼女は自分が四人[#「四人」に傍点]の娘となってる夢をみた。四人とも同じ室に別々の寝台に寝ていた。四人とも同じ身長であり同じ顔だった。けれども、一人は八歳で、一人は十五歳で、一人は二十歳で、一人は三十歳だった。伝染病が流行していた。三人はもう死んでいた。四番目の者は鏡を見ていた。恐怖に襲われていた。鏡の中の姿は、鼻が細り顔だちがやつれていた……彼女も死にかかってるのだった。――もうそれでおしまいになるのだ……。
 ――自分の生涯を私はどうしたのだろう?……
 彼女は涙を浮かべながら眼を覚《さ》ました。けれど悪夢は夜が明けても消えなかった。悪夢は事実だった。彼女はその生涯《しょうがい》をどうしたのだろうか? だれがそれを奪い取ったのだろうか?……彼女はオリヴィエを恨みだした。オリヴィエこそは罪なき共犯者――(罪がないとて、害が同じならどうにもならない)――彼女を圧倒する盲目な掟《おきて》の共犯者である。彼女はそのあとで、彼を恨んだことをみずからとがめた。なぜなら彼女は善良だったから。しかし彼女はあまりに苦しんでいた。そして、彼女に結びついて彼女を害してる男、みずからも苦しんではいるものの、やはり彼女の生を窒息さしてるその男、それを彼女は復讐《ふくしゅう》のためにさらに苦しませずにはいられなかった。その後彼女はますますがっかりしぬいて、自分で自分が厭《いや》になった。もし自分自身を救い出す方法が見出せなかったら、なおいっそう悪いことをするようになるかもしれない気がした。彼女は自身を救い出す方法を、周囲に手探りで捜し求めた。あたかもおぼれる者のようになんにでもすがりついた。多少とも自分の物であり自分の作品であり自分の存在でありさえすれば、その何物かに、なんらかの作品に、なんらかの存在に、心を寄せようと試みた。知的な仕事をまた始めようと努め、外国語を学び、論説や短編小説を書き始め、絵画や作曲を始めた……。でもすべて駄目だった。最初の日からもう落胆した。あまりにむずかしかった。それに、「書物や芸術的作品なんかがなんだろう? 私がほんとうにそれを好きかどうかもわからないし、それがほんとうに存在してるかどうかもわからない……。」――ある日などは、彼女は元気に話をし、オリヴィエといっしょに笑い、二人で話してる事柄に興味を覚えてるらしい様子をし、みずから気を紛らそうとした……。がそれも駄目だった、にわかに不安が襲ってき心がぞっと冷えきって、涙も出ず息もつけずに、たまらなくなって身を隠した。――彼女はオリヴィエにたいする自分の計画を一部なしとげた。オリヴィエは懐疑的になり社交的になった。けれどそれも彼女には別にありがたくなかった。彼女は彼を自分と同じく弱者だと思った。ほとんど毎晩二人は外出した。彼女は自分の苦しい倦怠《けんたい》を、パリーのあらゆる客間にもち運んでいた。彼女のいつも武装してる微笑の皮肉さの下にそれを見てとる者は、だれもいなかった。彼女は自分を愛してくれて深淵《しんえん》の上にささえ止めてくれる者を、捜し求めていた……。けれど駄目、駄目、駄目だった。彼女の絶望的な呼び声に答えてくれるものは、何もなかった。ただ沈黙ばかり……。
 彼女は少しもクリストフを愛してはいなかった。彼の粗暴な態度や、気にさわるほどの淡白さや、ことにその無関心さなどを、我慢できなかった。彼を少しも好きにはなれなかった。けれど、少なくとも彼は強者で――死を超越した岩石であることを、彼女は感じた。そして、その岩にすがりつきたく、波の上に頭をつき出してるその游泳者に取りつきたく、もしくは自分といっしょにそれをおぼらしてしまいたかった。
 それにまた、夫をその友人らから分離させただけでは足りなかった。友人らを夫から奪い取らなければいけなかった。女はもっとも正直な者でも、時とすると一種の本能に駆られて、自分の力の及ぶ限りを試みんとし、さらにそれ以上のことをやってみるものである。そういう力の濫用のうちでは、彼女らの弱さは一種の強みとなる。そして女が利己的で傲慢《ごうまん》であるおりには、夫からその友人らの友情を奪い取ることに、よからぬ楽しみを見出す。その仕事は訳なくやれる。少しの秋波を送るだけで足りる。男は実直であろうとなかろうと、投げられた餌《えさ》を噛《か》むだけの弱さをもたない者はほとんどない。いかに親しい誠実な友でも、相手を欺くことを、実行ではよく避け得るかもしれないが、頭の中ではたいていいつもなし得るものである。そして相手がそれに気づくと、二人の友情はそれで終わる。彼らはもう前と同じ眼でたがいに見はしない。――そういう危険な遊びをやる女のほうは、たいていそれきりのこととして、より以上を求めはしない。彼女は離反した二人を勝手に取り扱うだけである。
 クリストフはジャックリーヌのやさしい態度を見てとった。しかしそれを少しも驚きはしなかった。彼はだれかに愛情をいだいているときには、やはり向こうからもなんらの下心なしに愛されるのが自然であると、率直に思いがちだった。彼は若夫人の歓待に喜んで応じた。彼女を愉快に思った。彼女を相手に心から楽しんだ。そして彼は彼女をひどく好意的に判断したので、オリヴィエが幸福になり得ないとすれば、それはオリヴィエの間抜けなせいだと、考えざるを得ないほどだった。
 彼は二人に従って数日間の自動車旅行をした。そしてランジェー家がブールゴンニュにもっていた別荘の客となった。それは昔一家の者が住んでいた古い家で、記念のために取っておかれたけれど、ほとんどだれも行く者がなかった。葡萄《ぶどう》畑や林の中に孤立していた。内部は破損していて、窓もよく合わさっていなかった。黴《かび》や、熟した果実や、涼しい影や、日に暖まった樹脂《やに》多い木立、などの匂《にお》いがしていた。クリストフは、数日間引きつづいてジャックリーヌといっしょに暮らすうちに、しみじみとしたやさしい感情からしだいにとらえられた。彼はそれにたいして少しも不安をいだかなかった。彼女の姿を見、その声を聞き、その麗わしい身体に触れ、その口から出る息を吸って、彼は潔白なしかし無形的ではない一つの快さを覚えた。オリヴィエはやや気にかかりながらも黙っていた。彼は少しも疑念をいだきはしなかった。しかしある漠然《ばくぜん》たる不安に苦しめられた。そうだと自認するのも恥ずかしかった。みずから自分を罰するために、しばしば二人だけをいっしょにさしておいた。ジャックリーヌはその心中を読みとって、心を動かされた。彼にこう言ってやりたかった。
「ねえあなた、心配なさらなくてもいいわ。私はまだあなたをいちばん愛してるのよ。」
 しかし彼女はそれを口に出さなかった。そして三人とも事の成り行きに任していた。クリストフは何にも気づいていなかった。ジャックリーヌは自分が何を望んでるかはっきり知らないで、それを
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