い豊満の瞬間を味わったが、しかし二人はあまりに異なっていた。そして二人とも同じく激しい気質だったから、しばしば衝突をきたした。その衝突は少しも卑しい性質を帯びなかった。なぜなら、クリストフはフランソアーズを尊敬していたから。そして、時には残忍となり得るフランソアーズも、自分にたいして親切な人たちには親切であった。どんなことがあってもそういう人たちに悪いことをしたくなかった。それに元来二人はどちらも、快活な素質をもっていた。彼女は自分自身をあざけった。それでもやはり彼女は悩んでいた。昔の情熱にまだとらえられていた。まだあのくだらない男を愛していて、その男のことをやはり考えていた。そしてそういう恥ずかしい状態に堪え得なかったし、ことにクリストフからそれを察せられることに堪え得なかった。
クリストフは、彼女が幾日も憂鬱《ゆううつ》に沈み込んで黙ってたまらなそうにしてるのを見て、彼女が幸福でないことを不思議がった。彼女は目的を達していたではないか、人から賞賛され媚《こ》びられる大芸術家となっていたではないか……。
「そうよ、」と彼女は言った、「商人のような魂をもってて事務的に芝居を演ずる、多くの名高い女優たちと私も同じ心だったら、いいかもしれないわ。あの人たちは、よい地位や市民的な金のある結婚などを「実現」して、りっぱな勲章など――目当ての地[#「目当ての地」に傍点]――にたどりつくと、それで満足している。けれど私の望みはもっと大きいのよ。人は馬鹿でないかぎりは、成功は不成功以上にむなしいものだとは思えないでしょうか。あなたはそれを御存じのはずよ。」
「知ってる。」とクリストフは言った。「ああ僕は子供のときには、光栄をこんなものだとは想像していなかった。どんなにか光栄を熱望したことだろう。それがどんなに光り輝いたものに思えたことだろう? 何かある宗教的なもののように、僕は遠くからあこがれていた……。でもそんなことはどうでもいい。とにかく成功のうちには一つの尊い徳がある。すなわち善をなすことができるようにしてくれるのだ。」
「どういう善なの? なるほど勝利者とはなるけれど、それがなんの役にたつでしょう? 何にも変わりはしないわ。芝居も音楽会も、何もかも元どおりだわ。新しい流行が他の流行のあとを継いだというまでのことよ。皆は成功者を理解しやしない。理解するにしても駆け足でだわ。そしてもう他のことを考えてるでしょう……。あなただって、他の芸術家たちを理解していて? がとにかく、あなたは理解されてやしないことよ。あなたがいちばん愛してる人たちでさえ、どれほどあなたから遠く離れてることでしょう! あなたはトルストイのことを覚えていて?……」
クリストフはトルストイに手紙を書いたことがあった。トルストイの書物に感激したのだった。その民衆のための物語の一つを音楽に移したいと思って許可を求め、自分の歌曲集[#「歌曲集」に傍点]を送ってやった。ゲーテはシューベルトやベルリオーズからその傑作を送られても返事を出さなかったが、トルストイも同様、クリストフへ返事をくれなかった。彼はクリストフの音楽を演奏さしてみた。そして癪《しゃく》にさわった。何にもわからなかった。彼はベートーヴェンを敗徳漢だとしシェイクスピヤを香具師《やし》だとしていて、その代わりに、気取ったつまらない作家を喜び、丁髷《ちょんまげ》王を感心させるクラヴサンの音楽などを喜んでいたのだ。そして小間使の告白[#「小間使の告白」に傍点]をキリスト教的な書物だと思っていたのだ……。
「偉大な人々はわれわれを必要としてはいないのだ。」とクリストフは言った。「それより他の人々のことを考えなければいけない。」
「だれのことを?……人生を包み隠す影となってる、あの凡俗な公衆のことをなの? あんな人たちのために演じたり書いたりし、あんな人たちのために一生を棒にふるなんて! まあなんという厭《いや》なことでしょう!」
「なあに、」とクリストフは言った、「彼らにたいしては僕も君と同じ考えだ。それでも別につまらない思いはしない。彼らは君が言うほど悪いものではない。」
「あなたはまったく楽観的ね。パングロス先生だわ。」
「彼らだって僕と同じく人間なんだ。どうして僕を理解しないということがあろう?――そして、たとい彼らが僕を理解してくれなくても、それで僕は絶望するものか。あれら無数の人々のうちには、僕と心を共にするような人が、常に一、二人はいるだろう。それで僕には十分だ。外界の空気を呼吸するには一つの軒窓で十分だ……。あの無邪気な観客たちのことを、若者たちのことを、誠実な年老いた魂たちのことを、考えてもみたまえ。彼らは君が示してやる悲壮な美に接すると、自分の凡庸な日々を超脱するじゃないか。また子供のおりの君自身を思い起こしてみたまえ。かつて人が自分になしてくれた幸福と善とを他人に――たとい一人にでも――なしてやるのは、いいことではないか。」
「あなたはそういう人がほんとに一人でもいると思っていて? 私はもう疑わないではおれなくなったのよ……。それに、私たちを愛してくれる者のうちでいちばんよい人たちでさえ、どういうふうに私たちを愛してくれてるでしょうか。どういうふうに私たちを見てくれてるでしょうか。いけない見方をしてはしないでしょうか。人を辱《はずかし》めるような賞賛の仕方をしてるわ。どんな大根役者が演ずるのを見ても、やはり同じようにうれしがってるわ。軽蔑《けいべつ》すべき馬鹿者と同様に私たちを取り扱ってるわ。あの連中の眼には、成功しさえすればだれでも同じものに見えるのよ。」
「それでも、皆のうちでもっとも偉大な人々こそ、もっとも偉大な人として、後世に残るものだ。」
「それは距離のせいよ。山は遠くなるほどなお高く見えるものよ。そういう人たちの偉さはよくわかるけれど、それだけ遠く離れてるわけだわ……。それにまた、彼らこそもっとも偉い人たちだとだれが言えるでしょう? その他のもう死んでしまってる人たちについては、あなたは何を知っていて?」
「そんなことはどうでもいい!」とクリストフは言った。「僕がどんなものであるかを、だれも感じてくれなくても、僕はやはり僕だけのものだ。僕は自分の音楽をもっている、それを愛している、それを信じている。その音楽こそすべてのものよりいっそう真実なのだ。」
「あなたはまだ、自分の芸術のなかでは自由で、なんでも勝手なことができるわ。けれど私は何ができるでしょう? 人からあてがわれたことを演じなければならないし、それを厭《いや》になるほど繰り返さなければならないのよ。アメリカの役者たちは、リップ[#「リップ」に傍点]やロベール[#「ロベール」に傍点]・マケール[#「マケール」に傍点]を何千回となく演じ、二十五年間もつまらない役をくり返してるそうですが、私たちはフランスでは、まだそれほどの馬鹿げた状態にはなっていない。けれどその途中にあることは確かだわ。芝居って惨《みじ》めなものよ。観客が持ち堪えることのできる天才と言えば、ごく少量の天才ばかり、髯《ひげ》をそり爪《つめ》をきり毛をぬき香水をふりまいた流行型の天才ばかり……。『流行型の天才』だって、笑わせるじゃないの……。ほんとに力の無駄《むだ》使いだわ。ムーネのような人がどんな取り扱いを受けたか、みてごらんなさい。生涯《しょうがい》の間何を演じさせられたでしょう? 生き甲斐《がい》のある役と言ったら、オイディプスやポリュエウクトスなどきりだわ。その他はほんとにつまらないものばかり。しかも彼にとっては、偉大な光栄な事柄でたくさんすべきことがあったのを考えてごらんなさい……。フランス以外だって同じことだわ。デューゼのような人がどんな取り扱いを受けたでしょう? どんなことに生涯を費やしたでしょう? ほんとに無駄な役ばかりしたんじゃなくって?」
「君たちのほんとうの役は、」とクリストフは言った、「力強い芸術品を世の中に押しつけることだ。」
「いくら骨折っても駄目なことよ。骨折るだけの価値もないわ。そういう力強い作品も一度舞台にかかると、その偉大な詩を失って、虚偽なものになってしまうのよ。観客の息がそれをしなびさしてしまうのよ。息苦しい都会の臭い巣の中にいる観客は、広い大気や自然や健全な詩というものが、どんなものだかもう知ってやしない。あの人たちに必要なのは、私たちの顔みたいに塗りたてた詩ばかりよ。――ああ、そのうえ……そのうえ、なお、成功したとしても……それだけでは生活が満たされやしないわ、私の生活が満たされやしないわ……。」
「君はまだやはり彼のことを考えてるんだね。」
「だれのこと?」
「わかってるじゃないか。あの男のことさ。」
「そうよ。」
「だが、たとい君がその男を手に入れたとしても、またその男が君を愛してくれたとしても、実際のところ、君はまだ幸福にはなれないだろうし、苦しみの種をいくらも見つけるだろうよ。」
「まったくよ……。いったい私はどうしたんでしょう?……ねえ、私はあまり戦って、あまり自分を苦しめて、もう落ち着きを取りもどすことができず、自分のうちに不安をもってるのね、何か熱病を……。」
「そんなものは、困難をなめない前にも君のうちにあったはずだ。」
「そうかもしれないわ……そう、小さな娘の時分からもう……私はそれに苦しめられてたのよ。」
「いったい何を君は望んでるの。」
「わからないわ。自分にできる以上のことをでしょう。」
「僕にもそんな覚えがある。」とクリストフは言った。「青春のころはそうだった。」
「でもあなたは、もう一人前の男になっていてよ。私はいつまでたっても若者に違いないわ。不完全な者だわ。」
「だれだって完全な者はないさ。自分の力の範囲を知ってそれを愛することが、すなわち幸福というものだ。」
「私にはもうできなくてよ。その範囲から出てしまったんだもの。私は生活に痛められ疲らされ駄目にされてるのよ。それでも、皆の連中のようでなくて、普通の健全な美しい女になることもできたかもしれないと、そんな気がするのよ。」
「君は今でもまだなることができる。僕にはそういう君の姿がよく眼に見える。」
「ではどんなふうにあなたの眼に映ってるか、それを言ってちょうだいね。」
彼は、自然ななだらかな発展をとげて愛し愛される幸福な身になれる条件のもとにおける、彼女の姿を、いろいろ話してきかした。彼女はそれを聞くのが楽しかった。しかし聞いたあとで、彼女は言った。
「いいえ、もう今じゃ駄目よ。」
「そんなら、」と彼は言った、「あの老ヘンデルが盲目になったおりのように、みずからこう言うがいい。」
[#「あるものはみなよろし」の楽譜(fig42597_02.png)入る]
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(あるものはみなよろし)
[#ここで字下げ終わり]
そして彼はピアノのところへ行って、それを彼女に歌ってきかした。彼女はそのとんだ楽天家を抱擁した。彼は彼女のためになっていた。しかし彼女は彼の害になっていた。少なくとも彼女は、彼の害になるのを恐れていた。彼女は絶望の発作に襲われることがあって、それを彼に隠し得なかった。愛のために彼女は気が弱くなつていた。夜、二人相並んで床についてるとき、彼女が無言のうちに苦悶《くもん》をのみ下してるとき、彼はそれを察するのであった。そして、すぐそばにいながらしかも遠い彼女に向かって、その圧倒してくる重荷を自分にも共に荷《にな》わしてくれと願った。すると彼女は逆らい得ないで、彼の腕の中で泣きながら、自分の苦しみを打ち明けた。そのあとで彼は幾時間も、親切に穏やかに彼女を慰めた。しかしその絶えざる不安は、長い間には彼女を打ち負かさずにはいなかった。自分の焦慮がついには彼へも感染しはすまいかと、彼女は恐れおののいていた。彼女は彼を深く愛していたので、自分のために彼が苦しむという考えに堪えられなかった。彼女はアメリカへの契約を申し込まれていた。むりに立ち去るためにそれを承諾した。恥ずかしい気持でいる彼と別れた。彼と同じくら
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