ひどい奴だ!」とクリストフは言った。
「ええ、私もその男を憎みました。けれどその後、いろんな人に出会ってみると、もう彼をそんなに悪い人だとは思えなくなりました。少なくとも彼は、約束だけは守ってくれたのです。役者家業について知ってることは――(大したことじゃありませんが)――すっかり私に教えてくれました。私を一座のうちに入れてくれました。初めは皆の召使同様でした。ちょっとした端役《はやく》もやりました。それからある晩、喜劇の侍女が病気になったとき、私は冒険的にその役を受け持たせられました。それから引きつづいてその役をしました。とても駄目《だめ》で滑稽《こっけい》で見苦しいとのことでした。そのころ私は醜い女だったそうです。そして長く醜くかったのが、ついにはすぐれた理想的な女だということになったのです……。「女」ですって!……馬鹿な人たちですわ!――芸のほうは、私のは不正確で乱暴だとの評判でした。見物からは味わってもらえず、仲間からは笑われました。それでも追い出されなかったのは、とにかくいろんな用をしてやったからですし、金もかからなかったからです。私は、金がかからないばかりではなく、こちらから払ってたほどです。ああ、進歩をし地位が上るその一足ごとに、私は自分の肉体で代価を払いました。仲間の者や、主事や、座元や、座元の友だちなどが……。」
彼女は口をつぐんだ。色|蒼《あお》ざめ、唇《くちびる》をきっと結び、乾《かわ》いた眼つきをしていた。しかし彼女の魂が血の涙を流してることは感ぜられるのだった。一瞬の閃《ひら》めきのうちに、彼女は、それらの恥ずかしい過去のことを、また自分を支持してくれた激しい征服意志のことを、はっきり思い浮かべた。その征服意志は、堪え忍ばなければならない新しい汚行ことに、ますます激しくなっていった。彼女は死を希《ねが》いたかった。しかし恥辱のさなかに斃《たお》れてしまうのは、あまりに忌まわしいことだった。勝利の前に自殺するも、勝利の後に自殺するも、それは構わない。しかしながら、身を汚してその代償を得ないうちは、けっして……。
彼女は黙っていた。クリストフは憤慨して室の中を歩き回った。この女を苦しめ汚したその奴らを、打ち殺してしまいたかった。それから彼は、憐《あわ》れみ深く彼女をながめ、彼女のそばにたたずんで、その頭を、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を両手にはさんで、やさしく抱きかかえて、そして言った。
「かわいそうに!」
彼女は彼を押しのけそうにした。彼は言った。
「僕を恐《こわ》がってはいけません。僕はあなたをよく愛しています。」
すると、フランソアーズの蒼《あお》ざめた頬《ほお》に涙が流れた。彼は彼女のそばにひざまずいて、二滴の涙が落ちかかってる、
[#ここから3字下げ]
いとも美わしき長き手[#「いとも美わしき長き手」に傍点]……
[#ここで字下げ終わり]
の上に唇《くちびる》をつけた。
それから彼は席についた。彼女は心を取り直していた。そして、また静かに話をつづけた。
ついにある作家が彼女を世に出してくれた。彼はこの一風変わった人物たる彼女のうちに、一つの悪魔を、一つの天才を――そして彼のためにさらにいいことには、「一つの劇的人物、一時代を代表する新しい女」を、見出したのだった。もとより彼は、他の多くの女と関係したあとであって、彼女にも手をつけた。そして彼女も、他の多くの男に身を任せたと同様に、愛もなく、愛と反対の感情をさえもちながら、彼に身を任せた。しかし彼は彼女を有名にしてくれた。彼女も彼を有名にしてやった。
「そしてもう今では、」とクリストフは言った、「だれもあなたにたいしてなんともすることはできません。あなたのほうで他人を勝手に取り扱えるのです。」
「あなたはそう思っていらして?」と彼女は悲しげに言った。
そこで彼女は、運命のも一つの悪戯《いたずら》を語ってきかした――自分が軽蔑《けいべつ》してるくだらない男に迷い込んだ話を。それはある文学者で、彼女を利用し、彼女のもっとも著しい秘密を奪い取り、それを小説に書き、それから彼女を捨ててしまった。
「私はその男を、」と彼女は言った、「靴《くつ》の泥《どろ》のように軽蔑《けいべつ》しています。そして、そのひどい奴に自分が惚《ほ》れてることだの、ちょっと手招きさえさるれば、すぐ駆けつけて行って自分を辱《はずか》しめるだろうなどということは、考えるだけでもぞっとします。けれど、どうにもしかたがないんです。私の心は、私の精神が望んでるものを少しも好みません。そして心と精神とを、どちらか代わる代わる犠牲にし辱しめるようになるのです。私には心があり、身体があります。その二つが喚《わめ》きたてて、自分だけの幸福を求めています。私にはそれを制するだけの手綱がないんです。私は何にも信じません。私は自由です……自由? いえ、心と身体との奴隷です。それがたびたび、たいていいつも、私の厭《いや》がってることを望むんです。私を連れ去るんです。そして私は恥ずかしい思いをします。けれど、どうにもしかたがないのです……。」
彼女は口をつぐんで、暖炉の灰を火箸《ひばし》で何気なくかき回した。
「私は読んだことがあります、」と彼女は言った、「役者というものは何にも感じないものだということを。そして実際、私が見かけるたいていの役者は皆、自負心のつまらない問題にばかり気をもんでる見栄坊なのです。そしてその人たちと私と、どちらがほんとうの役者でないか、私にはわかりません。けれど自分では、私のほうがそうなのだと思っています。ともかく私は、他の人たちに代わって罰を受けています。」
彼女は話をやめた。夜中の三時だった。彼女は立ち上がって帰ろうとした。クリストフは、朝になって帰るほうがよいと言い、自分の寝台に横になったらと勧めた。彼女は、火の消えた暖炉のそばの肱掛椅子《ひじかけいす》にすわって、ひっそりした中で静かに話しつづけるほうを望んだ。
「明日《あした》になって疲れますよ。」
「私|馴《な》れていますの。でもあなたこそ……。明日のお仕事は?」
「明日は隙《ひま》です。十一時ごろちょっと稽古《けいこ》をしてやるだけで……。それに僕は丈夫です。」
「だからなおさらよく眠らなければいけないんでしょう。」
「そうです。僕はぐっすり眠りますよ。どんな苦しいことがあっても、眠られないということはありません。あまりよく眠るんで、時には癪《しゃく》にさわることさえあります。それだけ時間が無駄になりますからね……。一度睡眠に仕返しをして徹夜してやるのが、うれしくてたまらないんです。」
二人は小声で話をつづけながら、ときどき長く黙り込んだ。そのうちにクリストフは眠った。フランソアーズは微笑《ほほえ》んで、彼が落ちないようにその頭をささえてやった……。窓ぎわにすわって薄暗い庭をながめながら、ぼんやり夢想にふけった。庭はやがて明るくなった。七時ごろに、彼女は静かにクリストフを起こして、別れの挨拶《あいさつ》を言った。
その月のうちに、彼女はクリストフの不在中にやって来た。扉《とびら》は閉《し》め切ってあった。クリストフは彼女に部屋の鍵《かぎ》を一つ渡して、いつでも好きなときにはいれるようにしてやった。実際彼女は一度ならず、クリストフがいないときにやって来た。そしてテーブルの上に、菫《すみれ》の小さな花束を置いたり、または紙にちょっと、走り書きや素描や漫画を、書き残していった――立ち寄ったしるしに。
そしてある晩、彼女は芝居の帰りに、また楽しい話を繰り返すつもりで、クリストフのところにやって来た。彼は仕事をしていた。二人は話を始めた。しかし二、三言話し出すや否や、二人はどちらも、この前のようなやさしい気持でいないことを感じた。彼女は帰ろうとした。けれどもうおそかった。クリストフが引き留めたわけではなかった。彼女自身の意志が帰ることを許さなかった。二人はそのままじっとしていて、欲望が高まってくるのを感じた。
そしてたがいに身を任せた。
その夜以来、彼女は幾週間も姿を見せなかった。彼はその夜のために、数か月眠っていた情欲がふたたび燃え出して、彼女と会わずにはいられなかった。彼女の家へ行くことは断わられていたので、芝居へ行った。後ろのほうの席に身を隠した。愛情と感動とに燃えたっていた。骨の髄《ずい》までもおののいていた。彼女が自分の役に打ち込んでる悲壮な熱意は、彼女といっしょに彼を焼きつくした。彼はついに彼女へ書き送った。
――あなたは私を恨んでるのですか? お気にさわったのなら許してください。
その謙遜《けんそん》な言葉に接して、彼女は彼の家へ駆けつけて来、彼の腕に身を投げ出した。
「ただ親しい友だちのままでいたほうがよかったでしょうけれど。でもそれもできなかったからには、しかたないことに反抗しても無駄ですわ。もうどうなっても構わないことよ!」
二人は生活をいっしょにした。それでも各自に自分の部屋《へや》と自由とを取って置いた。クリストフとの几帳面《きちょうめん》な同棲《どうせい》に馴《な》れることは、フランソアーズにはできなかったろう。そのうえ、彼女の境遇もそれに適しなかった。彼女はクリストフのところにやって来て、昼と夜の一部を彼といっしょに過ごしたが、しかし毎日自分の家へももどってゆき、そこで泊まってくることもあった。
芝居のない幾月かの休暇中には、ジフ寄りのパリー郊外に、二人はいっしょに一軒の家を借りた。多少|愁《うれ》いの曇りがないでもなかったが、とにかく幸福な日々を、彼らはそこで過ごした。信頼と勉励との日々。二人の室はきれいで明るくて晴れ晴れとしていて、畑地を見晴らす広い自由な眼界が開けていた。夜は寝台の上から窓越しに、雲の怪しい影が、どんよりした薄明るい空を過ぎるのが見えた。たがいに抱き合ったままうとうととしながら、喜びに酔った蟋蟀《こおろぎ》の鳴く声や、驟雨《しゅうう》の降りそそぐ音などが聞かれた。秋の大地の息――忍冬《にんどう》や仙人草《せんにんそう》や藤や刈り草の匂《にお》い――が、家の中にまた二人の身体に沁《し》み込んできた。夜の静けさ。添い寝の眠り。沈黙。遠い犬の吠《ほ》え声。鶏の歌。曙《あけぼの》の光が見えそめる。冷え冷えとした灰色の暁のうちに、遠い鐘楼で御告《アンジェリユス》の鐘が細い音をたてる。寝床の温《ぬく》みの中にある二人の身体は、その暁の冷気に震えて、なお恋しげにひしと寄り添う。外壁に取りついてる葡萄棚《ぶどうだな》の中には、小鳥のさえずりが起こってくる。クリストフは眼を開いて、息を凝らし、しみじみとした心で、自分のそばにうちながめる、眠ってる女の疲れたなつかしい顔を、恋のためのその蒼白《あおじろ》い色を……。
彼らの愛は利己的な情熱ではなかった。肉体までも加わりたがる深い友情であった。彼らはたがいに邪魔をしなかった。各自に勉強していた。クリストフの天才や温情や精神力などは、フランソアーズには貴重なものだった。また彼女は、ある事柄には自分のほうが年上だという気がして、母親めいた喜びを覚えるのだった。彼女は彼のひくものを少しも理解できないのが残念だった。彼女には音楽はわからなかった。ただまれには、ある荒々しい情緒にとらえられることもあったが、その情緒でさえ、音楽から来たものというよりもむしろ、彼女自身から来たものであり、彼女やその周囲のもの、景色や人々や色彩や音響など、すべてをそのとき浸している情熱から来たものであった。それでも彼女はなお自分にわからないその神秘な言葉を通して、クリストフの天才を感じた。それはあたかも、りっぱな俳優が外国語で演じてるのを見るがようなものだった。彼女自身の天才もそれから力づけられた。またクリストフは作曲するときには、彼女のうちに、その恋しい形体の下に、自分の思想を投げ込み自分の情熱を具象化した。そして彼の眼には、それらの思想や情熱が、自分のうちにあったときよりもさらに美《うる》わ
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