わらせた。こだわりのないあざけり気味で、自分のことを話して、危うく死ぬところだったと言った。彼はびっくりした様子を見せた。すると彼女は茶化した。彼は何にも知らせなかったことを難じた。
「お知らせするんですって、あなたに来ていただくために! そんなことをするものですか。」
「きっとあなたは、僕のことなんかは考えもしなかったんですね。」
「そのとおりよ。」と彼女はやや悲しげな冷笑を浮かべて言った。「病気のうちはちょっとも考えなかったんですの。まったく今日が初めてですわ。寂しいことだと思っちゃ厭《いや》ですよ。私病気のときは、だれのことも考えないんです。ただ皆さんにお願いすることは、静かにさしといてほしいということだけですの。そして壁と鼻をつき合わして、じっと待ってるんです。一人ぽっちでいたいんです。鼠《ねずみ》のように一人ぽっちで死んじまいたいんですの。」
「けれど一人で苦しむのは辛《つら》いことです。」
「私は馴《な》れっこですわ。長い間不幸な身の上でしたの。だれも助けに来てくれませんでした。
今ではそれが癖になってるのでしょう……。それに、そのほうがかえってましですわ。だれがいたって何にもなりはしませんもの。室の中の物音や、煩わしい注意や、表面《うわべ》ばかりの悲嘆や……厭《いや》ですわ。一人ぽっちで死ぬほうがましですわ。」
「あきらめきってるんですね。」
「あきらめ? いえ私はそれがどんなことだかも知りませんわ。私ただ歯をくいしばって、自分を苦しめてる病気を憎んでやるんですの。」
彼は、だれも見舞いに来てはくれないのか、だれも世話をしてはくれないのか、と彼女に尋ねた。彼女の答えによると、芝居の仲間は、かなり親切な人たちで――馬鹿な人たちで――しかも世話好きで、同情深い人たち(それも上っすべりの)であった。
「でも、まったく私のほうで、あんな人たちに会いたくないんですの。私つむじ曲がりですわね。」
「そこが僕は好きなんです。」と彼は言った。
彼女はなさけなさそうに彼をながめた。
「あなたまでが! 他人《ひと》の口真似《くちまね》をなさるの?」
彼は言った。
「許してください……ああ、僕もパリー人になっちゃったのか! 恥ずかしい……。まったく僕は考えなしに言ったんです……。」
彼は夜具の中に顔を隠した。彼女はさっぱりと笑って、彼の頭を軽くたたいた。
「ああその言葉は、パリーの言葉じゃないわ。結構よ。私にはあなたがわかってるわ。さあ、顔をお見せなさいな。蒲団《ふとん》の上で泣いちゃ厭《いや》ですよ。」
「許してくれますか。」
「許してあげるわ。けれどもう繰り返しちゃいけませんよ。」
彼女はなお少し彼と話をし、彼がしてることを尋ね、それから疲れて飽きて、彼を帰らした。
つぎの週に彼はまたやって来る約束だった。しかし彼が家から出かけようとするときに、来てくれるなとの電報を受け取った。彼女は容態が悪かった。――それから翌々日に、彼女は彼を呼んだ。彼はやって行った。見ると、彼女はよくなりかけていて、半ば身を投げ出して窓ぎわにすわっていた。春先のことで、空には日が照り渡り、木々の若芽が萌《も》え出していた。彼女は彼にたいして、これまでよりいっそうやさしく穏やかだった。先日はだれにも会えなかったのだと言った。彼をも他の人たちと同様に嫌《きら》いになりそうだったのである。
「そして今日は?」
「今日は、すっかり若々しく新しくなった気がしますの。自分の周囲の若々しく新しく思えるものはなんでも――ちょうどあなたみたいなものはなんでも、なつかしい気がしますの。」
「でも僕はもう若々しくも新しくもありませんよ。」
「いいえあなたは死ぬまでそうでしょうよ。」
二人は、この前会ったときから後どんなことをしたかを話し、また芝居のことを話した。彼女はもうやがて芝居へ出勤するはずだった。厭々《いやいや》ながらつながれてる芝居のことについては、彼女も自分の考えを述べてきかした。
彼女はもう彼のほうから来てもらいたがらなかった。自分のほうから訪《たず》ねてゆくと約束した。しかし彼女は彼の邪魔になりはすまいかと心配していた。彼はいちばん仕事の妨げにならないような時間を知らした。二人は一種の合い言葉を定めた。彼女は一定の仕方で扉《とびら》をたたくことにした。彼はそのときの気持によって、扉を開くか開かないかすることにした……。
彼女は彼がいつも会ってくれるのに乗じはしなかった。しかしあるとき彼女は自分が詩を朗吟することになってる社交的夜会に行きかけて、最後の間ぎわに厭《いや》になった。行かれないと途中で電話をかけた。そしてクリストフのところへ行ってみた。ただ通りがかりにちょっと挨拶《あいさつ》をしてゆくつもりだった。ところがその晩、彼女はふと彼に打ち解けて、子供のときからの身の上話をした。
悲しい幼年時代だった。父は通り合わせの男で、彼女はそれを覚えていなかった。母はフランス北部のある町はずれに、評判の悪い飲食店を開いていた。車力たちが酒を飲みにやって来て上《かみ》さんといっしょに臥《ふせ》り、上さんをひどい目に会わしていた。そのうちの一人が彼女と結婚した、彼女に少し小金《こがね》があったから。彼は彼女をなぐりつけ、飲み食いばかりしていた。フランソアーズには一人の姉があって、その飲食店で女中の働きをしていた。仕事に疲れきっていた。亭主《ていしゅ》は上さんに公然と眼の前で、彼女を情婦にしていた。彼女は肺病だった。死んでしまった。フランソアーズは打擲《ちょうちゃく》や汚行のなかに育っていった。胆汁《たんじゅう》質のなつかしみのない娘で、熱い荒っぽい小さな魂をもっていた。母や姉が、泣き、苦しみ、あきらめ、堕落し、死んでゆくのを、彼女は見てきた。そして憤然とした意志で、あきらめまいとし、その穢《けが》らわしい環境からのがれようとした。彼女は反抗者だった。ある種の不正な事柄を見ると、神経の発作を起こした。なぐられると、引っかいたり噛《か》みついたりした。あるときなどは、首をくくろうとした。しかしそれはしとげられなかった。やり始めるとすぐに、もう厭《いや》になってしまい、あまりうまくゆきそうなのが恐ろしくなった。もう息がつけなくなって、ひきつった手で大急ぎに紐《ひも》を解いてると、生きたいという激しい願いがこみ上げて来た。そして、死によってのがれることができなかったので――(クリストフは、自分の昔の同様な苦難を思い起こしながら、悲しげな微笑《ほほえ》みを浮かべて聞いていた)――彼女は打ち克《か》って、自由な富裕な身になって、自分を虐《しいた》げてる人々を皆足下に踏みつけてやろうと、みずから誓った。亭主の怒鳴り声や、なぐられてる母の喚《わめ》き声や、強迫されてる姉の泣き声などが、隣の室に聞こえてるある晩、彼女は自分の汚《きたな》い室の中で、右の誓いをたてたのだった。彼女はどんなにか自分を惨《みじ》めに感じたことだろう! それでも彼女は、みずからたてた誓いに慰められた。彼女は歯をくいしばって考えた。
「今にみんなをやっつけてやる。」
そういう陰惨な幼年時代のうちにも、ただ一点の光明が存在していた。
ある日、同じ泥濘《でいねい》中の悪戯《いたずら》仲間の一人で、芝居小屋の門番の息子《むすこ》が、禁ぜられていたのを破って、彼女を芝居の試演に連れていった。二人は場席の奥の暗い所にはいり込んだ。薄暗い中に輝いてる舞台の神秘さ、役者たちが言ってる魔法的な不可解な事柄、女役者の女王めいた様子――実際この女優は伝奇的な通俗悲劇《メロドラマ》の中の女王を演じていた――それらに彼女は心打たれた。感動のあまりぞっと凍えきり、胸がひどく動悸《どうき》した……。「そうだわ、そうだわ、いつかこんなになってやらなけりゃ!……なあに、あの人だってこんなになってるから、私にだって……。」……その試演が済むと、彼女はどうしても晩の公演が見たかった。友がそこから出て行くのを止めないで、自分もあとについて出るふうをした。それからまたもどってきて、芝居小屋の中に隠れた。腰掛の下にうずくまって、埃《ほこり》に咽《む》せ返りながら、三時間もじっとしていた。そして公演が始まりかけ、観客がやって来たので、彼女は隠れ場所から出ると、災難にもつかまえられてしまって、人々の嘲笑《ちょうしょう》のうちに、恥ずかしくも追い出され、家に連れもどされ、ひどく打たれた。もし彼女がそのとき、それらの人々を威圧し復讐《ふくしゅう》するために、未来どんな者になるかを頭に置いていなかったとしたら、おそらくその夜中に死んでたかもしれなかった。
彼女の計画は成り立った。役者たちが泊まってる劇場付旅館兼珈琲店[#「劇場付旅館兼珈琲店」に傍点]に、女中として住み込んだ。彼女はほとんど読み書きもできなかった。そして何にも読んだことがないし、読むべきものをもってもいなかった。彼女は学び知りたいと思って、異常な精力で勉強した。客人たちの室にある書物を盗み出した。蝋燭《ろうそく》を倹約するために、夜は月の光であるいは曙《あけぼの》の光で読んだ。役者たちはだらしがなかったので、彼女のそういう小さな盗みに気づかなかった。あるいはただぶつぶつ言うきりだった。それにまた彼女は、読んだあとで書物を返した――と言っても、そのまま返しはしなかった。気に入った部分は裂き取っておいた。その書物を返すときには注意して、寝床の下や家具の下に押し込んで、室からもち出されたのではないと思わせるようにしておいた。また彼女は、扉《とびら》に耳を押しあてて、台辞《せりふ》を繰り返してる役者たちに耳を傾けた。そして一人で廊下の掃除《そうじ》をしながら、彼らの台辞回しを小声で真似《まね》たり、身振りをしたりした。そういうところを人に見つけられると、あざけられたり悪口言われたりした。彼女はむっとして口をつぐんだ。――そういう教育法は長くつづくはずだったが、彼女はあるとき不謹慎にも、役者の室から台辞《せりふ》の台本を盗み出した。その役者はひどく怒った。女中よりほかにだれも彼の室にはいった者はなかった。で彼は彼女の仕業《しわざ》だとした。彼女は厚かましく打ち消した。彼は身体じゅうを調べるとおどかした。彼女は彼の足下に身を投げ出して、いっさいのことを白状し、他の窃盗や書物のページを裂き取ったことなど、あらゆる秘密をみな自白した。彼は恐ろしくののしった。しかし見かけほど意地悪くはなかった。なぜそんなことをしたかと尋ねた。女優になるつもりだと彼女が答えると、彼はたいへん笑った。何を知ってるかと尋ねてみた。彼女は覚えてることをみな諳誦《あんしょう》してみせた。彼はびっくりして言った。
「どうだい、俺《おれ》が教えてやろうか。」
彼女はこの上もなく喜んで、彼の手に接吻《せっぷん》した。
「ああ私は、」とフランソアーズはクリストフに言った。「その男をどんなにか愛するところでした。」しかし役者はそのあとですぐに言い添えたのだった。
「ただ、お前にもわかってるだろうが、魚心あれば水心と言ってね……。」
彼女は処女だった。人からいろいろ挑《いど》まれても、いつもひどく恥ずかしがってはねつけていた。
その粗野な貞節、愛のない不潔な行為や卑しい肉欲にたいする嫌悪《けんお》、それらを、彼女は子供のときからもっていた。家の中で周囲に起こる悲しい事柄を見て、つくづく厭気《いやけ》を起こさせられてたからだった。――彼女はそのときもなおそれらを失わないでいた……。ああ不幸な彼女、彼女はひどい罰をになっていたのである! なんという運命の愚弄《ぐろう》だったろう!……
「では、」とクリストフは尋ねた、「あなたは承知したのですか。」
「ああ私は、」と彼女は言った。「それをのがれるためには、火の中に飛び込んでも構わないと思っていました。ところがその男は、泥棒として私を捕えさせるとおどかしたのです。私は他にしかたがなかったのです。――そうして私は、芸術の……また人生の、手ほどきを受けたのでした。」
「
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