などをいっこう気にかけていないもっとも独創的な音楽家を、ののしり散らしていた。ただ、りっぱな選挙論をもってるらしい一、二の作曲家ばかりは、その例外だとしていた。彼らの音楽がその選挙論よりずっと劣ってるのは残念なことだった。しかしそれは些事《さじ》にすぎなかった。そのうえ、彼らにたいする賛辞も、またクリストフにたいする賛辞でさえも、他の音楽家らにたいする非難ほど重大なものではなかった。パリーでは、一人の者を讃《ほ》めてる評論を読むときには、「だれのことが悪く言われてるか」と考えるのが、いつも慎重な方法である。
 オリヴィエは、新聞を読んでゆくに従って恥ずかしさに顔を赤くし、そして考えた。
「俺《おれ》はとんだことをしたものだ!」
 彼は講義をするのもようやくのことだった。自由の身になるとすぐに、家へ駆けもどった。クリストフが新聞記者らといっしょに出かけたことを知ると、このうえもなくびっくりした。昼食には帰って来るだろうと待ってみた。がクリストフは帰って来なかった。オリヴィエは時がたつにつれて心配になって考えた。
「彼らはクリストフに馬鹿《ばか》なことを言わしてるに違いない。」
 三時ごろ、クリストフはごく快活な様子で帰ってきた。アルセーヌ・ガマーシュと昼食を共にしたのだった。シャンペン酒を飲んだので頭が少しぼんやりしていた。どんなことを言いどんなことをしたかとオリヴィエから気がかりそうに尋ねられたが、彼にはその不安の理由が少しもわからなかった。
「何をしたかって? 素敵な昼飯を食ったよ。もう長らくあんなによく食ったことはなかった。」
 彼はその献立表を述べてきかした。
「それから酒も……いろんな色のを飲んだよ。」
 オリヴィエはそれをさえぎって、他の客たちのことを尋ねた。
「他の客たちだって?……僕《ぼく》はよく知らない。ガマーシュがいた。丸っこい男で、このうえもなく純真な奴《やつ》だ。評論の筆者のクロドミールもいた。面白い奴だ。それから、三、四人の知らない記者がいたが、みなたいへん快活で、僕に親切と好意とを見せてくれた。一粒|選《よ》りのりっぱな連中だったよ。」
 オリヴィエは承認の様子を示さなかった。クリストフはオリヴィエがあまり喜ばないのが不思議だった。
「君はあの評論を読んでいないんだね。」
「読んだとも。そして君自身はよく読んでみたのか。」
「読んだ……と言っても、ちょっと見ただけだが、その隙《ひま》がなかったんだ。」
「じゃあ、少し読んでみたまえ。」
 クリストフは読んだ。そして初めから放笑《ふきだ》した。
「馬鹿め!」と彼は言った。
 彼は笑いこけた。
「おやおや、」と彼はつづけて言った、「批評家ってみな自惚《うぬぼ》れてばかりいやがる。何にも知っていないくせに。」
 しかし読んでゆくに従って、彼は腹をたて始めた。あまりに愚劣だった。彼を物笑いの種となしていた。彼を「共和的な音楽家」としたがっていた。それはなんらの意味をもなさなかった……。がまあそんな洒落《しゃれ》はどうでもいいとして……彼の「共和的な」芸術を、彼以前の大家らの「聖器所の芸術」に対立せしめていた――(そういう大家らの魂からこそ彼は養われたのだった)――あまりにひどいことだった……。
「阿呆《あほう》どもが! 俺を馬鹿者にしようとしてやがる……。」
 そのうえ、彼のことに関して、彼が多少とも――(むしろごくわずかばかり)――愛してるフランスの才能ある音楽家らを、自分の職分を心得ていてりっぱな仕事をしてる音楽家らを、いじめつける理由がどこにあろう? そしてもっともいけないことには――彼はその故国にたいして嫌悪《けんお》すべき感情をいだいてるものと推測されていた……。そういうことは、とうてい我慢のできないことだった。
「僕は奴らに手紙を書いてやる。」とクリストフは言った。
 オリヴィエはそれをなだめた。
「いや、今書いちゃいけない!」と彼は言った。「君はあまり興奮しすぎてる。明日、頭が休まってから……。」
 クリストフは強情を張った。彼は言いたいことがあるときにはもう待っておれなかった。ただ書いた手紙をオリヴィエに見せることだけは約束した。それも無駄《むだ》ではなかった。手紙はひどく修正された。ことに彼がドイツにたいしていだいてるとされてる意見を熱心に訂正した箇所が、はなはだしく修正された。クリストフはその手紙を出しに駆けていった。
「こうしておけばいくらかいいだろう。」と彼はもどって来て言った。「手紙が明日発表されるだろうから。」
 オリヴィエは疑わしい様子で頭を撮った。それから、やはりなお気がかりだったので、クリストフの眼をのぞき込みながら言った。
「クリストフ、君は食事中別に不謹慎なことは何も言わなかったろうね。」
「言うものか。」とクリストフは笑いながら言った。
「確かかね。」
「ああ。くよくよするなよ。」
 オリヴィエは少し安心した。しかしクリストフはちっとも安心できなかった。彼はやたらにしゃべり散らしたことを思い出した。あのとき彼は、すぐにいい気になってしまったのだった。ちょっとの間も人々を疑おうとはしなかった。彼らはいかにも打ち解けてるらしかったし、いかにも彼に好意をもってるらしかった。そして実際そうだった。人は自分がいいことをしてやった相手にたいしては、いつも好意を示すものである。それにクリストフはいかにも打ち明けた喜びを見せたので、その喜びの情が彼らにも伝わっていった。彼の温情的な遠慮なさ、元気|溌溂《はつらつ》たる奇抜さ、非常な食欲、喉《のど》も動かさずに酒を飲み込む早さなどは、アルセーヌ・ガマーシュに不快を与えるはずはなかった。ガマーシュもまた食卓の勇者で、無作法で田舎者《いなかもの》で多血質であって、丈夫でない人々を、食うことも飲むこともできない人々を、パリーのいじけた者どもを、軽蔑《けいべつ》しきっていた。彼は食卓で人を判断していた。で彼はクリストフを高く買った。そして即座に、彼のガルガンチュア[#「ガルガンチュア」に傍点]をオペラ座の歌劇に上演させようと申し込んだ。――(これらフランスの中産者らにとっては、ファウストの劫罰や九つの交響曲[#「ファウストの劫罰や九つの交響曲」に傍点]などを上演することが、当時芸術の極致だった。)――クリストフは、その唐突な考えをおかしがった。そしてガマーシさが、オペラ座の事務所やまた美術局に電話で命令を伝えようとするのを、ようやくのことで引き止めた。――(ガマーシュの言うところによれば、そういうところにいる人々は皆彼の頤使《いし》のままになるらしかった。)――そしてガマーシュの申し出はクリストフに、彼の交響詩ダヴィデ[#「ダヴィデ」に傍点]が先ごろ変なごまかし方をされた事件を思い出さした。で彼は、代議士のルーサンが情婦の門出のために催したダヴィデ公演の詩を、うっかりしゃべってしまった。(第五巻広場の市参照。)ガマーシュはルーサンを少しも好きでなかったから、その話を非常に愉快がった。クリストフは豊富な酒と聴《き》き手の同情とに元気づいて、多少無遠慮な他の話までもち出した。それらの話を聴き手たちは一言も聞きもらさなかった。ただクリストフだけが、食卓を離れるともう忘れてしまった。そして今オリヴィエに尋ねられて、彼はそれを思い出した。彼は背筋がぞっとするのを覚えた。空《むな》しい希望をつなぎ得なかったのである。過去に十分経験があったので、これからどんなことになるかほぼ見当がついた。酔いもさめてしまった今では、もうそうなってしまったかのようにはっきり頭に浮かんだ。彼の不謹慎な話は変更されて、悪徳新聞の雑報に掲げられ、彼の芸術上の警句は戦いの武器と変えられるに違いなかった。またあの訂正の手紙についても、どれほどの役にたつかをオリヴィエと同様によく知っていた。新聞記者に答えることは、インキを無駄にすることにすぎない。新聞記者へ言ったことはもう取り返しがつかない。
 すべてのことは一々、クリストフの予想どおりに起こってきた。不謹慎な話は新聞に現われたが、訂正の手紙は現われなかった。ガマーシュはただ、彼の心の高潔さを承認するということ、そういう懸念をこうむるのは名誉の至りだということを、彼に伝えたばかりだった。懸念の事実は自分一人の胸に堅く納めてしまった。そしてクリストフのものだとされてる誤った意見はしだいに広まっていって、パリーの諸新聞に辛辣《しんらつ》な批評を惹起《じゃっき》し、それからドイツへ伝えられて、ドイツの芸術家が自国についてかく下劣な言辞を弄《ろう》するのを、人々は憤慨した。
 クリストフは、他の新聞の探訪員から面会を求められたので、それをいい機会だとして、ドイツ帝国[#「ドイツ帝国」に傍点]にたいする自分の愛を弁解し、ドイツ帝国内においても人は少なくともフランス共和国内におけると同じく自由であると言った。――ところが、その相手は保守的な新聞の記者であって、彼はすぐに非共和的な宣言をしたものだとされてしまった。
「ますます奇態だ。」とクリストフは言った。「いったい僕の音楽が政治となんの関係があるのか。」
「それがフランス人のいつものやり方だ。」とオリヴィエは言った。「ベートーヴェンについてなされてる論争を見てみたまえ。ある者は彼を過激民主派だとし、ある者は彼を僧侶《そうりょ》派だとし、あるいはペール・デーシェーヌの一派だとし、あるいは君主の奴僕だとしてるじゃないか。」
「なんだって! そんな奴らをベートーヴェンは蹴飛《けと》ばしてやるに違いない。」
「じゃあ君もそうするさ。」
 クリストフは実際そうしたかった。しかし彼は、自分に親切を見せてくれる者にたいしては、あまりに人が善《よ》くなりすぎるのだった。オリヴィエは彼を一人で置いとくと心配でならなかった。いつも面会人がやってくるのだった。そしてクリストフはいくら用心しようと誓っても駄目だった。意中を隠すことができなかった。頭に浮かんだことはなんでも話した。婦人記者がやって来て彼の味方だと言うと、彼は自分の情事をも話してしまった。ある者は彼を利用して、某々の悪口を言う種に使った。オリヴィエがもどってきてみると、クリストフは困りきった様子をしていた。
「また馬鹿なことを言ったんだね。」と彼は尋ねた。
「相変わらずだ。」とクリストフはがっかりして言った。
「ほんとにしようがないね。」
「監禁でもされなくちゃ……。だが、誓ってこれでおしまいだよ。」
「そうだ、このつぎまではね……。」
「いやこれっきりだ。」
 その翌日、クリストフは得意げにオリヴィエに言った。
「また一人来たよ。僕は閉《し》め出しを食わしてやった。」
「あまりひどいことをしてはいけないぜ。」とオリヴィエは言った。「彼らにたい心ては用心しなければいけない。『この動物は性質きわめて悪し……』なんだからね。こちらではねつければ攻撃してくる……。意趣返しなんかは彼奴《あいつ》らにとって訳ないことなんだ。ちょっとしたことでも言えば、すぐにそれを利用するんだ。」
 クリストフは額《ひたい》に手をあてた。
「ああしまった!」
「またどうかしたのか。」
「扉《とびら》を閉めながら言ってやった……。」
「なんと?」
「帝王の言葉を。」
「帝王の?」
「そうだ、でなけりゃ、それに似寄った者の言葉を……。」
「困ったもんだね。明日になってみたまえ、第一ページに出てるよ。」
 クリストフはびっくりした。しかし翌日新聞を見ると、その記者がはいりもしなかった彼の部屋《へや》の記事と、交えもしなかった会話とが、掲載されていた。
 報道は広まるにつれて飾りたてられていった。外国の新聞では、反対の意味に面白くなされていた。フランスの記事が、クリストフは貧困中ギター用に編曲をしていたと伝えると、やがてクリストフはイギリスのある新聞から、自分が往来でギターをひいたことがあると教えられた。
 彼は賛辞ばかりを読んでるわけではなかった。なかなかそれどころではなかった。クリストフはグラン[#「グラン」に傍点]・ジュー
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