いた。世のやさしい母親、正直な中流婦人、りっぱな人妻は、そのやくざな息子《むすこ》へ何かある特典を得させることができるならば、自分の身体を売ってもいいと思っているが、オリヴィエもちょうどそれに似ていた。
 オリヴィエは諸雑誌に筆を執っていたし、多くの批評家や文芸愛好家と接触していたので、おりがあればかならずクリストフの噂《うわさ》をしていた。そしてしばらく前から、自分の言葉が聞きいれられてるのを見て我ながら驚いた。文学界や社交界に広まってゆく、一種の好奇の動きを、一種の妙な風説を、彼は周囲に感知した。その起源はなんであったろうか、イギリスやドイツでクリストフの作品が最近演奏されたのにたいする、新聞紙の多少の反響であったろうか。いや、はっきりした原因があるのではなさそうだった。それは、パリーの空気を吸っていて、サン・ジャック塔の気象台よりもなおよく、どういう風が起こりかけていて明日はどうなるということを、前日から知ってるような、見張りを事としてる精神の人々には、よくわかってる現象の一つだった。電気の震動が通ってるこの神経質な大都会のうちには、眼に見えない光栄の潮流があり、露《あら》わな名声に先立つ隠れたる名声があり、客間の漠然《ばくぜん》たる風評があり、時至れば広告的論説となって現われてくる、イーリアス以上のもの出づ[#「イーリアス以上のもの出づ」に傍点]があり、新しい偶像の名前をもっとも堅い鼓膜にも響き通らせる、太鼓の太音があるのである。それにまた時とするとその大らっぱは、賞賛の対称たる当人のもっとも親しいもっともよい友人らを逃げ出させることすらある。けれどその責任は友人らのほうにもある。
 ところでオリヴィエは、グラン[#「グラン」に傍点]・ジュールナル[#「ジュールナル」に傍点]の評論に関係があった。彼は人々がクリストフにたいして示してる興味を利用し、巧みな報道によってそれを煽《あお》りたてさせるだけの注意をとった。用心してクリストフを直接に新聞記者と接触させはしなかった。何か面白くないことが起こりはすまいかと恐れたのだった。けれど、グラン[#「グラン」に傍点]・ジュールナル[#「ジュールナル」に傍点]の求めにより、策略をもってクリストフに気づかれないようにして、彼と一人の探訪員とをある珈琲店の食卓で出会わした。それらの用心は、ますます人の好奇心を刺激し、クリス
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