なわれてるカトリック教改新の盛大な運動、理性と自由と生命とを取り入れんためになされてる、フランスにおけるキリスト教的思想の熱烈な努力、それをオリヴィエはクリストフに示してやった。りっぱな牧師たちがいて、その一人が言ったように、「人間たるべき洗礼を受ける」だけの勇気をもっていて、すべてを理解しあらゆる誠実な思想をいだくだけの権利をカトリック教のために要求していた。なぜなら、「あらゆる誠実な思想は、たといそれが間違うことはあっても、常に神聖で崇高である」からだった。また数千の若いカトリック教徒らがいて、善良な意志をもってる者にはだれにでもうち開かれてる、自由な純粋な博愛なキリスト教の共和国をうち建てんとの、勇ましい願望をいだいていた。そして、忌まわしい攻撃や、邪教だとの誹謗《ひぼう》や、右翼左翼両派の――(ことに右翼の)――不実な裏切りなどを、それらの偉大なキリスト教徒らはたえず受けるにもかかわらず、近代主義の小団をなしてる人々は、永続的なものを築くには涙と血とで固むるのほかはないと知って、苦難を忍従し晴れやかな額《ひたい》をし、未来に通ずる嶮峻《けんしゅん》なる隘路《あいろ》を進んで行きつつあった。
 生気ある理想主義と熱烈なる自由主義との同様な息吹《いぶ》きが、フランスにおける他の宗教をもふたたび活気だたせていた。新しい生命のおののきが、新教やユダヤ教の大きな麻痺《まひ》した身体に流れていた。理性の力をも感激の力をも犠牲にしない自由な人類の宗教を創《つく》り出さんと、すべての人々が雄々しい競争をなして努力していた。
 かかる宗教的熱意は、宗教のみが有してるものではなかった。それはまた革命運動の魂であった。そしてこの方面においては悲壮な性質を帯びていた。クリストフがこれまでに見たものは、下等な社会主義――政治屋連中の社会主義にすぎなかった。その政治屋連中は、幸福[#「幸福」に傍点]という幼稚粗雑な夢を、なお忌憚《きたん》なく言えば、権力[#「権力」に傍点]の手に帰した科学[#「科学」に傍点]が得さしてくれると彼らが自称してる、一般の快楽[#「快楽」に傍点]という幼稚粗雑な夢を、飢えたる顧客らの眼に見せつけてるのであった。その嫌悪《けんお》すべき楽天主義に対抗して、労働組合を戦いに導いてる優秀者らの深奥熱烈な反動が起こってるのを、クリストフは見てとった。それは、「壮大なるものを生み出す戦闘、瀕死《ひんし》の世界に意義と目的と理想とをふたたび与える戦闘」への、召集の叫びであった。それらの偉大なる革命家[#「革命家」に傍点]らは、「市井的で商人的で平和的でイギリス的な」社会主義を唾棄《だき》して、世界は「拮抗《きっこう》をもって法則とし、」犠牲に、たえず繰り返される常住の犠牲に生きてるという、悲壮な観念をそれに対立せしめていた。――それらの首領らから旧世界の襲撃に突進させられてる軍隊が、過激行為にカントとニーチェとを同時に通用してるその神秘な戦意を、果たして理解してるかどうかは疑問であるとしても、それでもやはり、革命的貴族の一派は痛烈な光景を呈していた。彼らの熱狂的な悲観主義、勇壮な生活の熱望、戦いと犠牲とにたいする熱烈な信念は、ドイツ騎士団や日本のサムライなどの軍隊的宗教的理想と同じであるかの観があった。
 それでも、それはもっともフランス的なものだった。数世紀来|牢固《ろうこ》たる特性を保有してるフランス民族だった。オリヴィエの眼を通してクリストフは、国約議会《コンヴァンシオン》の論客や為政家のうちにも、旧政体時代のある思想家や実行家や改革家のうちにも、その特性を見出した。カルヴァン派、ジャンセニスト、ジャコバン党員、産業革命家、その他各方面において、空望も落胆もなしに自然と戦ってる、悲観的理想主義の同じ精神が――往々国民を粉砕しながらも、なお国民を支持する鉄骨が――現われていた。
 クリストフはそういう神秘な争闘の息吹《いぶ》きを呼吸した。そして、フランスが強硬な誠実さをうち込んでるその熱狂的信念の偉大さを、了解し始めた。統一[#「統一」に傍点]により多く慣れてる他の国民は、それについてなんらの観念ももってはいなかった。クリストフも初めはすべての外国人と同じく、フランス人の専制的精神とフランス共和政が真正面にふりかざしてる魔法文字との間の、あまりに明らかな矛盾にたいして、駄洒落《だじゃれ》を並べて喜んでいた。しかるに初めて彼は、フランス人が尊重してる尚武的な自由[#「自由」に傍点]の意味を、おぼろに理解し始めた。それこそ理性[#「理性」に傍点]の恐るべき刃《やいば》であった。クリストフが考えていたのとは違って、それは彼らにとっては、響きのよい美辞でもなく漠然《ばくぜん》たる想念でもなかった。理性の要求が何よりも第一となる民衆にあっては、理性のための戦いがいかなる他の戦いをも支配していた。実際的だと自称してる民衆らにはその戦いがいかに馬鹿げて見えようとも、それは取るに足らぬことだった。深い眼から見れば、世界の征服、大帝国、金銭、などのためにする戦いも、やはり徒《いたず》らなるものとしか見えないのだ。千年万年とたつうちには、それらの戦いから残るものは何一つないだろう。しかしながら、生にその価値を与えるところのものは、存在のあらゆる力が昂進《こうしん》してより高き存在[#「存在」に傍点]へおのれを犠牲にするほどの戦いの強度にあるとしたならば、理性のためにもしくは理性に反してフランスでなされてる永遠の戦いほど、生を光栄あらしむる戦いは世にあまりない。そして、そういう戦いの辛辣《しんらつ》な味を味わった人々にとっては、アングロ・サクソン人のあれほど慢《ほこ》りとしてる無感情的な信仰の自由も、男らしからぬ無味乾燥なものだと思われるのだった。アングロ・サクソン人は精力の用途を他に見出してその補いをつけていた。彼らの精力はその信仰の自由の中には存在しなかった。信仰の自由が偉大となるのはただ、敵対中においてそれが一つの勇武となる場合のみである。現今のヨーロッパにおいては、信仰の自由は多く、無関心、信仰の欠乏、生命の欠乏、にすぎないのである。イギリス人は、ヴォルテールの言葉を勝手にもじって、革命がフランスにもたらしたよりも、「より大なる信仰の自由を、多様な信教がイギリスにこしらえ出した、」と好んで自慢している。――しかしそれは、イギリスの種々の信教のうちによりも、革命のフランスのうちに、より多くの信仰があるからである。

 勇敢な理想主義の、理性の戦いの、その戦場から、あたかもウェルギリウスがダンテを導いたように、オリヴィエはクリストフの手をとって、山の頂へ連れて行った。そこには、真に自由なるフランス人中の少数の優秀者らが、黙々たる朗らかな様子で立っていた。
 それは世にもっとも自由な人々であった。静穏な空を翔《か》ける鳥の朗らかさに似ていた……。その高い頂では、空気がいかにも純潔で希薄であって、クリストフは息ができにくいほどだった。そこには芸術家や思想家や学者などがいた。芸術家は幻想の無際限な自由を主張していた。フローベルのように、「事物の現実性を信ずる馬鹿者ども」を軽蔑《けいべつ》する、熱狂的な主観論者であった。――思想家らの変転的な多様な思想は、動体の無窮の波動に順応して、「たえず流動し、」どこにも定着せず、どこにも堅固な地面や岩を見出すことなくして、モンテーニュが言ったように、「存在をではなく推移[#「推移」に傍点]を、時々刻々に移りゆく永遠の推移[#「推移」に傍点]を描き出していた。」――学者らは、人間が思想や神や芸術や学問を作り出してる世界の空虚と虚無とを知りながら、なお世界とその法則とを、一時の力強い夢を、創造しつづけていた。彼らは学問に向かって、安息や幸福やまたは真理をも求めてはいなかった。彼らは真理に到着できるかを疑っていたのである。そして、真理は美しいものであり、唯一の美しいものであり、唯一の現実であるがゆえに、ただ真理のために真理を愛していた。思想界の絶頂には、熱烈な懐疑家である学者らがいた。彼らは苦しみにも、蹉跌《さてつ》にも、ほとんど現実にも、無関心であって、ただ魂の無声の音楽に、数と形との微妙雄大な和声《ハーモニー》に、眼を閉じて聴《き》き入っていた。それらの偉大な数学者ら、自由な哲学者ら――世にもっとも厳正確実な精神の人々――は、神秘な歓喜の極端にあった。彼らは自分の周囲に空虚な淵《ふち》をうがち、深淵《しんえん》の上にぶらさがって、その眩暈《めまい》に酔っていた。際限なき暗夜のうちに彼らは、崇高な喜びの念をもって、思想の電光をひらめかしていた。
 クリストフも彼らのそばに身をかがめて、のぞいてみようとした。しかし眼がくらんで見られなかった。自己の本心の法則以外のあらゆる法則を脱したので、もう自由の身だと信じていた彼も、それらのフランス人に比べてはいかに自由の度が狭小だかを、駭然《がいぜん》として感じたのである。彼らは、精神のあらゆる絶対的な法則から、あらゆる無上命令から、あらゆる生存の理由から、脱してしまっていた。しからばなんのために彼らは生きてるのか?
「自由であることの喜びのためにだ。」とオリヴィエは答えた。
 しかしクリストフは、そういう自由の中では途方にくれたので、かえって力強い規律的精神が、ドイツ式な専横が、残り惜しくなってきた。彼は言った。
「君たちのその喜びは、誘惑の餌《えさ》であり、阿片《あへん》喫煙者の夢だ。君たちは自由のために酔わされて、生を忘れている。絶対的な自由、それは精神にとっては狂気であり、国家にとっては無政府だ……。自由だと! この世でだれが自由な者がいるか? 君の共和国でだれが自由な者がいるか?――いるとすれば無頼漢どもばかりだ。君たちは、りっぱな人間は、皆息がつけないでいるのだ。もう夢みることしかできないのだ。やがては夢みることもできなくなるだろう。」
「なに構うものか!」とオリヴィエは言った。「クリストフ、気の毒だが君には、自由であることの楽しみがわからないのだ。危険や苦痛や死をさえも冒すに足るだけの、価値ある楽しみなのだ。自由であること、自分の周囲のすべての精神が――そうだ、無頼漢どもまでが、自由であると感ずること、それは言い知れぬ愉快事なんだ。無限の空間に魂が浮游《ふゆう》してるようなものだ。その魂はもう他の所では生き得ないだろう。君が説く安全というものは、帝国主義の兵営の四壁中にあるりっぱな秩序や完全な規律などは、僕になんの役にたとう? そんな所では窒息して死ぬのほかはないだろう。空気が必要なのだ。常により多くの空気が! 常により多くの自由が!」
「世界には法則がいる。」とクリストフは言った。「おそかれ早かれ、主人が現われてくる。」
 しかしオリヴィエは嘲笑《あざわら》って、ピエール・ド・レトアール老人の言葉をクリストフに思い起こさした。

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フランス人の言論の自由を拘束することは、
地上のあらゆる能力の力にては、
なしがたきところなり。
太陽を地中に埋めんとし、
もしくは穴に閉じ込めんとするに、
さも似たり。
[#ここで字下げ終わり]

 クリストフはしだいに、無制限な自由の空気に慣れてきた。全身光のみなる精神の人々が夢想しながら身を置いてる、フランス思想界の絶頂から、彼はその山の斜面を足下に見おろした。そこには、なんらかの生きたる信仰のために戦ってる勇ましい優秀者らが、頂に達せんものと永遠の努力をつづけていた。――無知や疾病《しっぺい》や悲惨にたいして神聖な戦いをしてる人々。光を征服し空中の道を開いてる、近代のプロメテウスやイカロスとも言うべき人々の、発明の熱望、正気な熱狂。自然を統御せんとする学問の偉大な戦い。――その下方には、黙々たる一団、誠意ある男女、勇敢謙譲な心の人々。彼らはあらゆる努力をもって、ようやく山の中腹には達したが、凡庸な生活に阻《はば》められて、もはやそれより上へは登ることができず、人知れぬ献身のうちにひそかに焦
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