q場。周囲には、靄に包まれた青黒い森林の大洋。霧が樅《もみ》の枝葉の茂みの中にすべり込んでいた。透き通った霧の帷《とばり》が、物の線を柔らげ色を柔らげていた。すべてがじっとして動かなかった。人の足音も声も聞こえなかった。秋に熟した※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》の金銅色の葉の上に、雨の雫《しずく》が音をたてていた。石の間には、小さな流れの水が鳴っていた。クリストフとオリヴィエは立ち止まって、もう身を動かさなかった。各自に自分の喪の悲しみに思いをはせていた。オリヴィエは考えていた。
「アントアネット、あなたはどこに居るのか?」
 クリストフは考えていた。
「母がいない今となっては、成功も何になろう?」
 しかし二人ともおのおの、死者の慰藉《いしゃ》の言葉を耳にした。
「かわいいお前、私たちのことを嘆いてはいけません。私たちのことを考えてはいけません。彼のことをお考えなさい……。」
 二人は顔を見合わした。そしてどちらも、もう自分の苦しみを感じないで、友の苦しみを感じた。二人は手をとり合った。朗らかな愁《うれ》いが二人を包んだ。そよとの風もないのに、霧の帷が静かに消えていった。青空がまた晴れ晴れと現われてきた。雨あがりの地面のしめやかな心地よさ……。それは情けある美しい微笑を浮かべて、両腕で胸の上に人を抱き取ってくれる、そして言ってくれる。
「休息なさい。すべてよいのだ……。」
 クリストフの心は和らいできた。二日以前から彼は、なつかしい母の思い出のなかに、母の魂のなかに、すっかり生きてきたのだった。その微々たる生活――子供のいない家の沈黙のなかに、自分を打ち捨てた子供たちのことを考えながら、過ごされてきた単調な寂しい日々――安らかな信仰と、やさしい親切な気質と、微笑《ほほえ》める忍従と、利己心の皆無とをそなえてる、病身でいながら元気である憐《あわ》れな老母……それを彼はありありと思い浮かべた。それから彼はまた、自分の知ってる微賤《びせん》な魂の人たちのことをも考えた。そして今や、それらの人たちにいかに自分を近く感じたことだったろう! 幻影に駆られてる諸民族をたがいに衝突せしむる、あの殺害的狂乱の風が吹き過ぎる危急な時期のすぐあとで、あらゆる思想と人々とが猛然と取り組み合ってる火宅のようなパリーにおける、長年の困難な奮闘からのがれ出て、今やクリストフは、その逆上せる不毛な世界にたいして、その利己主義の戦いにたいして、また、自分こそ世界の理性だと自惚《うぬぼ》れながら実はその悪い夢にすぎない選良者、野心家、虚栄者、などにたいして、ある嫌厭《けんえん》の情を覚えたのだった。そして、温良と信仰と献身との純な炎に黙々と燃えてる、各民族のうちの無数の素朴《そぼく》な魂の人たち――世界の心とも言うべき人たち――のほうへ彼の愛はすべて向いていった。
「そうだ、私はあなたたちを知っている。私はついにあなたたちにめぐりあった。あなたたちは私と同じ血であり、私と同胞である。私は放蕩《ほうとう》息子のようにあなたたちのもとを去って、通りがかりの人影について行った。けれどまたもどって来た。私を迎えてほしい。私たちは死者も生者も皆一体である。私がどこへ行こうと、あなたたちはいつも私といっしょにいる。私を負《おぶ》ってくれたお母《かあ》さん、私は今あなたを自分のうちに担《にな》っている。それからあなたがた、ゴットフリート、シュルツ、ザビーネ、アントアネットあなたがたも皆私のうちにいる。あなたたちは私の富である。私たちはいっしょに歩こう。私はもうあなたたちを離れまい。私はあなたたちの声となろう。皆力を合わせて、私たちは目的地に達するだろう……。」
 一条の光線が、静かに雫《しずく》をたらしてる木々の濡《ぬ》れた枝葉の間から、すべり込んできた。下のほうの小さな牧場から、幼い声が聞こえていた。三人の少女が、森の家のまわりでいっしょにロンドを踊りながら、無邪気な古いドイツの歌曲《リード》を歌ってるのだった。そして遠くから西風が薔薇《ばら》の香《かお》りのように、フランスの鐘の音をもたらしていた……。
「おう、平和、崇高な諧調《かいちょう》、解放された魂の音楽! 汝《なんじ》のうちには、悲しみも喜びも死も生も、敵同志の民族も味方同志の民族も、みないっしょに融《と》け合っている。私は汝を愛する、汝を求める、汝を自分のものとしよう……。」

 夜の帷《とばり》が落ちてきた。クリストフは夢想から覚《さ》めて、オリヴィエの信実な顔を自分のそばに見出した。彼はそれに微笑《ほほえ》みかけて抱擁した。それからまた二人は、無音のまま森の中を歩きだした。そしてクリストフは、オリヴィエの先に立って道を開いて進んだ。

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黙々として、ただ二人、連れも
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