だけ、姉の思い出に一人でふけった。二人いっしょに暮らした住居を保存し得ないのが、彼にはつらかった。彼は金をもたなかった。自分に同情を寄せてくれるらしい人たちから、姉の所有品を取り留め得ない悲しみを悟ってもらいたかった。しかしだれも悟ってくれそうになかった。で彼は多少の金を、半ばは借り半ばは個人教授で手に入れて、それで屋根裏の室を一つ借り、姉の寝台やテーブルや肱掛椅子《ひじかけいす》など、取り留め得られるだけの器具をすべてつめ込んだ。彼はそれを追懐の聖殿だとした。意気|沮喪《そそう》したおりにはそこに逃げ込んだ。友人らは彼に婦人関係でもあると思っていた。彼はそこで幾時間も、額《ひたい》を両手に埋めて姉のことを夢想した。不幸にも彼女の肖像は一枚もなかった。ただ、子供のとき二人いっしょに写った小さな写真きりだった。彼は彼女に話しかけ、涙を流した……。彼女はどこにいるのか? もしそれがこの世のどこかであったなら、いかなる場所であろうとも、どんなに行きにくい場所であろうとも――せめて一歩ごとに近づけさえしたら、たとい跣足《はだし》で幾世紀間歩かせられようと、幾多の艱難《かんなん》をも忍んで、いかなる喜びと不撓《ふとう》の熱心とをもって、彼女を捜しに突進したことであろう!……そうだ、彼女のところへ行き得る機会が、たとい万に一つでもありさえしたら!……しかし何もなかった……彼女に会えるなんらの方法もなかった……。なんたる寂寥《せきりょう》ぞ! 自分を愛し助言し慰めてくれる彼女がいなくなった今では、彼は頓馬《とんま》でお坊っちゃんのまま人生に投げ出されたのだった……。親愛な心の限りない完全な親和を、ただ一度でも知るの幸福を得た者は、もっとも聖なる喜びを――その後一生の間不幸だと感ずるような喜びを――知ったものと言うべきである。

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楽しかりし時を悲惨のうちにて思い出すほど、世に大なる苦痛はあらず……。
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 弱いやさしい心の人にとってのもっともつらい不幸は、一度もっとも大なる幸福を味わってきたということである。
 しかしながら、生涯の初めのころに愛する者を失うのは、いかにも悲しいことのように思われるけれども、あとになって生命の泉が涸《か》れつくしたときにおけるほど、恐ろしいものではない。オリヴィエは若かった。そして、生来の悲観性にもかかわらず、不幸な境涯《きょうがい》にもかかわらず、やはり生きていたかった。アントアネットは死にさいして、自分の魂の一部を弟に吹き込んでいったらしかった。彼はそう信じていた。彼女のように信仰はもっていなかったが、彼女が誓ってくれたとおりに、彼女はまったく死滅したのではなくて自分のうちに生きてるのだと、彼は漠然《ばくぜん》と思い込んでいた。ブルターニュで一般に信じられてるところによれば、若い死人は死んだのではなくて、普通の生存期限を果たすまでは、その生きてた場所になお彷徨《ほうこう》してるそうである。――そのとおりにアントアネットも、なおオリヴィエのそばで生長してゆきつつあった。
 彼は彼女の書いたものを見出しては読み返していった。があいにく彼女はほとんどすべてを焼き捨てていた。そのうえ彼女は、自分の内生活をしるしとどめておくような女ではなかった。自分の思想を暴露《ばくろ》することを彼女は恥ずかしがったであろう。ただ彼女がもってたのは、自分以外の者にはだれにもほとんどわからない小さな控え帳――ごく細かな備忘録だけだった。その中にはなんらの注意書きもなしに、ある日付が、日々の生活のある小さな出来事が、書きつけてあった。それは彼女にとって、喜びや感動のおりおりで、詳細に書きしるしておかなくても思い出せるものだった。それらの日付のほとんどすべては、オリヴィエの生活に起こった事柄に関係していた。また彼女は、彼からもらった手紙を一つも失わずに全部保存していた。――悲しくも彼のほうはそれほど丹念ではなかった。彼女から受け取った手紙のほとんどすべてを失っていた。なんで手紙を取っておく必要があったろう? いつも姉がそばについていてくれることと思っていた。大事な愛情の泉はいつまでも涸《か》れないような気がしていた。いつでもその泉で唇《くちびる》と心とを清涼にすることができると、安心しきっていた。それから受け取れる愛を浅慮にも浪費していた。そして今では、そのわずかな雫《しずく》までも集め取りたかった……。かくして、アントアネットのもってた詩集の一冊をひらきながら、一片の紙に鉛筆で書かれたつぎの言葉を見出したとき、どんなに彼は感動したろう。
「オリヴィエ、なつかしいオリヴィエ!……」
 彼は気が遠くなるほどだった。墓から彼に話しかける眼に見えない口に向かって、自分の唇を押しあてながら、すすり泣いた。――その日以来、彼は書物の一冊一冊を取り上げて、他にも何か内心の思いを書き残してはすまいかと思って、ページごとに捜していった。そしてクリストフにあてた手紙の草稿を見出した。それによって、彼女のうちにできかけてた暗黙の恋愛を知った。これまで知らないでいたしまた知ろうとも求めなかった、彼女の感情生活を初めて洞見《どうけん》した。弟から見捨てられて、縁遠い友のほうへ両手を差し出してた、彼女の心乱れた最後の日々を、彼はまざまざ想像した。かつて彼女は、以前クリストフに会ったことを彼に打ち明けていなかった。が手紙の数行によって彼は、二人が近いころドイツで出会ったことを知った。細かな点は少しもわからなかったが、ある場合にクリストフがアントアネットへ親切だったこと、そのときからアントアネットの想《おも》いがきざしたこと、それを彼女が最後まで秘めつづけたこと、などを彼は了解した。
 彼はそのりっぱな芸術のためにすでにクリストフを好んでいたので、ただちに言い知れぬなつかしさを覚えた。姉がクリストフを愛していたのだ。クリストフのうちになお姉をも愛してるように、オリヴィエには思われた。彼はあらゆることをしてクリストフに接近しようとした。しかしその行くえを探るのは容易なことではなかった。クリストフは音楽会の失敗後、広大なパリーのうちに姿を隠してしまった。だれの前にも出て来なかったし、まただれももう彼のことを念頭においていなかった。数か月の後オリヴィエは、病気上がりの蒼白《あおじろ》い痩《や》せ衰えたクリストフに、偶然往来で出会った。しかし彼は呼び止めるだけの勇気がなかった。遠くからその家までつけていった。手紙を書きたかったが、それもほんとうには決心しかねた。なんと書いたらよいかわからなかった。オリヴィエは自分一人ではなく、アントアネットがいっしょについていた。彼女の恋と羞恥《しゅうち》とが彼のうちにはいり込んでいた。姉がクリストフを愛していたという考えのために、彼はあたかも自分が姉自身であるかのように、クリストフにたいして顔を赤らめた。それでもやはり、クリストフといっしょに姉の話がしたかった。――けれどもそれができなかった。姉の秘密によって唇《くちびる》に封印されていた。
 彼はクリストフに会おうとつとめた。クリストフが行きそうな所へは、どこへでも出かけて行った。彼へ握手を求めたくてたまらなかった。が彼の姿を見るとすぐに、彼から見られないように身を隠した。

 ついに、二人はある晩知人の客間に行き合わして、そこでクリストフはオリヴィエを認めた。オリヴィエは彼から遠のいていて、何にも言わなかった。しかし彼のほうをながめていた。そしてアントアネットがその晩、オリヴィエといっしょにいたに違いない。クリストフは彼女の姿を、オリヴィエの眼の中に認めたのだった。その突然現われた彼女の面影に誘われて、クリストフは客間を横切って近寄っていった、若いヘルメスのように幸《さち》ある霊の愁《うれ》わしげなやさしい会釈をもたらしてる、その未知の使者のほうへ。



底本:「ジャン・クリストフ(三)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年8月18日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2008年1月27日作成
2009年12月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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