に隠れて、知人の顔が見当たりはすまいかとびくびくしていた。しかしだれもやって来る者はなかった。彼らが出発する時間には、町はようやく眼を覚《さ》ましかけてるばかりだった。汽車の中はがらんとしていた。三、四人の百姓が乗ってるきりで、その他には数頭の牛が、貨物室の柵《さく》の上から頭をつき出して、憂鬱《ゆううつ》な鳴き声をたてていた。長く待たせたあとに、機関車が長い汽笛を鳴らして、汽車は霧の中を動き出した。三人の移住者は窓掛けを払い、顔を窓ガラスにくっつけて、最後にも一度ながめた、靄《もや》に隔てられてぼんやり見えてるゴチック式の塔のある小さな町を、茅屋《ぼうおく》の立ち並んでる丘を、霜氷に白くなって湯気の立ってる牧場を。それはもはや、あるかなきかの遠い夢|景色《げしき》だった。線路が曲がって、ある切り通しの中にはいり込み、その景色が見えなくなってしまうと、彼らはもう人に見られる恐れもないので気をゆるめた。ジャンナン夫人は口にハンケチをあててすすり泣いた。オリヴィエは母に身を投げかけ、その膝《ひざ》につっ伏して、その手に唇《くちびる》をつけ涙をそそいだ。アントアネットは車室の向こう隅《すみ》
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