のまわりには、寒い夜の、人も獣もすべて生きてるものは温《あたた》かい睡眠にふけってる夜の、深い沈黙が立ちこめていた。アントアネットは歯の根を震わせていた。彼女は心も身体も凍えていた。
表門の扉《とびら》の音が凍った空気中に響いた。家の鍵《かぎ》をもってる老婢《ろうひ》が、最後の御用を勤めに来たのだった。彼女は背が低くでっぷりしていて、息が短く、肥満のために不自由だったが、しかし年齢のわりには妙に敏活だった。温かく頬《ほお》を包んだ善良な顔つきで、鼻頭を真赤《まっか》にし、眼に涙を浮かべながら、姿を現わした。そして、ジャンナン夫人が彼女を待たずに起き上がり、台所の炉に火を焚《た》きつけてるのを見てがっかりしてしまった。――オリヴィエは老婢がはいって来たので眼を覚《さ》ました。がすぐにまた眼を閉じ、夜具の中で寝返りをして、ふたたび眠った。アントアネットは寄って来て、その肩にそっと手をかけ、小声で呼んだ。
「オリヴィエ、ねえ、もう時間よ。」
彼はほっと息をつき、眼を開き、のぞき込んでる姉の顔を見た。姉は悲しげに微笑《ほほえ》みかけて、その額《ひたい》を手でなでてやった。彼女はくり返した。
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