う? 何をなし得よう? 彼はどう考えるだろうか?――彼女は自分の家へ逃げ帰った。
 家にもどって初めて、彼女は安堵《あんど》の心地がした。しかし自分の室にはいり、暗がりに身を置くと、帽子も手袋もぬぐ元気がなくて、テーブルの前にじっとすわったままでいた。彼と話すことのできなかったのが悲しかった。と同時にまた、心の中に光が輝いていた。もう暗闇《くらやみ》が眼に映らなかった。自分を悩ましてる病苦のことも気にかからなかった。先刻の光景を細かくいつまでも思いふけった。その事柄を変えて、もしこれこれの事情が違っていたら、どうなったろうかということを、心に描き出した。クリストフのほうへ腕を差し出してる自分の姿が見えた。自分を認めたクリストフの喜ばしい表情が見えた。そして彼女は笑《え》みを浮かべ、顔を赤らめた。顔を赤らめて、だれからも見られない暗い室の中に一人きりで、ふたたび彼へ両腕を差し出した。もう堪えられなかった。彼女は自分自身が消えてゆくような心地がした。そばを通りかかって、温情の眼つきを見せてくれた力強い生命へ、本能的にすがりつこうとしていた。愛情と悩みとに満ちた彼女の心は、夜の中で彼に叫んで
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