急いで立ち去った。往来で、たがいに腕をとり合いながら、オリヴィエは憤激してしゃべっていた。アントアネットは黙っていた。

 その後彼女は幾日も、一人室にこもって、ある感情にぼんやり浸っていた。その感情を彼女は正面《まとも》にながめることを避けたが、しかしそれはいかなる考えにも打ち消されずに、ちょうど顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の重苦しい脈搏《みゃくはく》のように、いつまでも頭から去らなかった。
 あれからしばらくたって、オリヴィエはクリストフの歌曲集[#「歌曲集」に傍点]をある書店で見出して、それを彼女へもって来てくれた。彼女はいい加減なところをひらいてみた。するとちょうどそのページに、楽曲の初めに、ドイツ語の捧呈《ほうてい》文が読まれた。

[#ここから3字下げ]
わが親愛なる憐れなる犠牲者へ[#「わが親愛なる憐れなる犠牲者へ」に傍点]
[#ここで字下げ終わり]

 そして下に日付がついていた。
 彼女はその日をよく覚えていた。――彼女は胸騒ぎがして、読みつづけることができなかった。楽譜を下に置いて、弟に演奏してくれと頼みながら、自分の室にはいって閉じこもっ
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