ていたので、二人の視線はかち合った。おそらくクリストフの眼は一瞬間彼女を認めたであろう。しかし彼は喧騒《けんそう》に巻き込まれて、精神では彼女を認め得なかった。(彼女のことはもう久しい前から彼の念頭になかった。)彼は嘲罵《ちょうば》のさなかに姿を隠してしまった。
 彼女はなんとか叫びたて言いたててやりたかった。しかし悪夢の中のように自由がきかなかった。ただ、善良な弟の声をそばに聞いて多少慰められた。弟は彼女の心中に何が起こってるかは夢にも知らずに、その悲痛と憤慨とを共にしていた。オリヴィエは音楽にたいする理解が深くて、何物にも害されない独立した趣味をそなえていた。何か一つのものを好むときには、いかなることがあろうともそれを好んだ。交響曲《シンフォニー》の初めのほうの小節を聴《き》いたときからすでに、何か偉大なものを、まだかつてこの世で出会ったことのない何かを、彼は感じたのだった。そして心から熱心に、「いいなあ、いいなあ!」と小声で繰り返した。すると姉は、ありがたそうに知らず知らず身を寄せてきた。交響曲《シンフォニー》が済むと、聴衆の皮肉な冷淡さに対抗するため、彼は熱狂的な喝采《かっさい
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