るはずだった。彼らは二人ともそのドイツの音楽家を知らなかった。やがて音楽家が出て来るのを見たとき、彼女は胸にどきりとした。疲れた眼でぼんやり見ただけだったけれど、彼が舞台にはいったときにはもう疑いの余地はなかった。ドイツで厭《いや》な日を送ってたおりに見覚えてる、あの名も知らぬ友だったのだ。彼女はかつて弟に彼の話をしたことはなかった。心の中で彼のことを考えたこともほとんどなかった。あのとき以来彼女のすべての考えは、生活の苦労に奪われてしまっていた。それにまた彼女は、理性の勝ったフランス娘であって、起原のわからない曖昧《あいまい》な感情を、是認することができなかった。彼女のうちには、窺《うかが》いがたい深いところに、魂の広野が横たわっていた。そこには彼女自身でも見るのを恥じる他の多くの感情が眠っていた。彼女はそれらの感情がそこにあることを知っていた。しかしながら、人の精神で制御できない存在者[#「存在者」に傍点]にたいする一種の敬虔《けいけん》な恐れからして、彼女はそれらの感情から眼をそらしていた。
 胸騒ぎが少し静まったとき、彼女は弟の双眼鏡を借りてクリストフをながめた。楽長の譜面台に
前へ 次へ
全197ページ中175ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング