た)――それが頭につきまとい、他のすべてのことにたいして盲目となり無関心となっていた。――アントアネットは弟の心中に何が起こってるかを少しも知らなかった。ただ彼が自分から離れてゆくことばかりを見てとっていた。しかし彼が離れていったのも、それはまったく彼のせいばかりではなかった。時には彼も、家にやって来ながら、彼女に会い彼女と話すのが非常にうれしかった。ところが家にはいると、彼の心はただちに冷たくなった。彼女が彼にすがりついて来、彼の言葉を吸い込み、やたらに世話をやく、その落ち着かない愛情と熱い心とに出会うと――その過度のやさしさといらいらした注意とに出会うと、すぐに彼は心を打ち明けたい願いを失ってしまうのだった。アントアネットが普通の状態でないことを、彼は考うべきであったろう。思いやりのある慎み深い平素の態度とは、まったく異なっていたのである。しかし彼はただそうだとかそうでないとかいうごく冷淡な答えをした。彼女が彼をしゃべらせようとすればするほど、彼はますます黙り込んでいった。あるいは乱暴な返辞をして彼女の気を害した。すると彼女もがっかりして口をつぐんだ。その楽しい一日はただ無駄に過ぎ
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