て、恋しさの情に堪えなかった。
 ちょうどそのとき、フランス俳優の一団が、その小さなドイツの町を通りかかった。アントアネットは、芝居へはめったに行かなかった――(行くだけの隙《ひま》も趣味ももたなかった)――がそのときは、自国語を聞きフランスのうちに逃げ込みたいという、押えがたい欲求にとらえられた。その後のことは読者の知ってるとおりである。もう劇場には座席がなかった。彼女は青年音楽家のジャン・クリストフに出会った。見知らぬ間柄だったけれども、クリストフは彼女の失望を見てとって、自分がもっている桟敷《ボックス》に入れてやろうと申し出た。彼女はうっかり承諾した。そしてクリストフといっしょにいたことが、小さな町の噂《うわさ》の種となった。その悪い噂はすぐにグリューネバウム家の人たちの耳にもはいった。彼らはもうすでに、その若いフランスの女に関するよからぬ疑いを認めたい気持になっていたし、また、他の所で(第四巻反抗参照)述べておいたとおりの事情からして、クリストフにたいして憤っていたので、非道にもアントアネットを解雇してしまった。
 弟にたいする愛情のうちにすっかり包み込まれ、あらゆる汚れた考え
前へ 次へ
全197ページ中143ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング