あわ》れむべき彼らはくだらない欲求をしかもってはいない。食べること、欠伸《あくび》をすること、眠ること――また、倹約すること、それだけしか彼らはなし得ないのである。アントアネットはそういう連中をよく知っていた。子供のときから見てきたのだった。富裕と貧困との眼鏡で見てきたのだった。自分が期待できる事柄について、もう幻を描いてはいなかった。それで、結婚を求めてきた男の申し出は、彼女にとっては意外の喜びだった。彼女は初め彼を愛してはいなかったが、深い感謝と情愛とがしだいに胸に沁《し》み通ってきた。彼女はその申し込みを承諾したかった。しかしそれには、彼に従って植民地へ行き、弟を見捨てなければならなかった。で彼女は断わった。相手の男は、彼女の拒絶の理由がりっぱなものであることを理解しはしたけれど、それでも許し得なかった。恋愛の利己心は、恋人のうちでもっとも尊いものと思われるその美徳をさえも、こちらのために犠牲にしてもらわなければ承知しないのである。彼は彼女に会うことをやめた。もう手紙もくれなかった。そして彼が出発してからは、彼女はその消息を少しも聞かなかった。最後にある日――五、六か月後のことだ
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