はもっと早く知らせなかったことを責めた。アントアネットはだれにも内密にしてもらうように頼んだ。事件はそれきりだった。そしてアントアネットが頼りにしてる夫人は、その客間をあの男に向かって閉ざす必要はなかった。彼のほうでもうやって来なかったから。

 それとほとんど同じころ、アントアネットにはまったく違った種類の他の心痛が起こった。
 四十歳ばかりのごく正直な男で、極東に領事の役を帯びていて、数か月の休暇をフランスで過ごしに帰って来ていたのが、ナタン家でアントアネットに出会った。そして彼女に惚《ほ》れ込んでしまった。その出会いは、アントアネットの知らないまにナタン夫人が前もって手はずを定めたのだった。夫人はかわいい彼女を結婚させようと考えてるのだった。その男もやはりイスラエル人だった。美男ではなかった。頭が少し禿《は》げて背が曲がっていた。しかし温良な眼をしていて、態度もものやさしく、自分が苦しんだので他人の苦しみにも同情し得る心をもっていた。アントアネットはもう昔の空想的な少女ではなかった。麗わしい日に恋人とともにする散歩といったふうに人生を夢みる、甘やかされた子供ではなかった。彼女は今
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