世の中のことはたいていそうですが、もう遅《おそ》い!」
(それはシトロンのことなのか途切れた話のことなのかわからなかった。)
彼女は言いつづけた。
「帰って来ますと、短い手紙が来ていました。私がしてやった種々なことのお礼を言い、パリーへ帰るということでした。住所は書き残してゆきませんでした。」
「それきり手紙をよこしませんか。」
「ええ何にも。」
クリストフは、あの悲しげな顔が夜の中に消えてゆくところを、ふたたびありありと思い浮かべた。列車の窓越しにこちらをながめている最後に見たとおりの眼が、一瞬間彼の前に現われた。
フランスの謎《なぞ》がいっそう執拗《しつよう》にふたたび提出された。クリストフはフランスを知ってると自称してるラインハルト夫人に尋ねて飽きなかった。そしてラインハルト夫人はかつてフランスに行ったこともないのに、彼になんでも教えてやった。ラインハルト氏はりっぱな愛国者で、夫人以上によくはフランスを知らず、フランスにたいする偏見でいっぱいになっていて、夫人の感激があまりひどくなると、時として控え目な態度を破ることもあったが、しかし夫人はさらに激しく主張しつづけた。
前へ
次へ
全527ページ中307ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング